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滞仏日記「いつの時代も母親は偉大である」 Posted on 2019/11/01 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、母さんに内緒で本を出した。ずっと内緒で、弟にだけ相談をし、ゲラを読ませていた。母さんはぼくら兄弟を育てた。育てることで人生の何かを犠牲にしてきた人だ。ぼくらはわかっていた。それが母さんのぼくらへの愛だということが…。だから、ぼくは長男だし、作家だし、何か母さんにおかえしをしなきゃ、とずっと思っていた。母さんはぼくら兄弟をずっと見捨てなかった。ずっと愛情を持って育て上げてくれた。自分の夢よりもぼくらの幸せを願って生きてきた。自分の幸せよりもぼくら兄弟の幸せだけを願って生きてきた人だ。そうだ、母さんの本を出そう、出さなきゃ、とぼくは思った。

今日、その本が全国の書店に並んだ。ぼくは福岡の弟に電話をかけた。
「母さんを連れて、今すぐ、近くの書店に行ってくれないか」
「なんで?」
「なぜなら、ぼくの新刊の表紙に、母さんの写真を使っているからだよ」
「おお、わかった。連れていく。近くに本屋があるから、そこへ」

実は、自分の顔写真を表紙に使うのは作家生活30年ではじめてのことでもある。しかも母さんとの2ショットの写真だ。何か母さんに恩返しをしたいと思って来た。母さんがぼくと弟を育ててくれなければ、こんなことは思わなかった。母がいたから、ぼくらがいる。

だれもが母親から生まれてきた。あの母だからこそ、ぼくはこうやってのびのびと生きることが出来た。ぼくを許し続けてくれたのは母さんだった。そして、母の言葉はいつも重かった。母は誰よりも厳しかったし、誰よりも優しかった。ぼくも弟もそのことには感謝しかない。母さんの一代記を書かなきゃ、と思った。女性の人権を真剣に考えた人だった。ウーマンリブさえなかった時代に、母さんはガッツで生き抜き、いかなる屈強な男たちにも負けなかった。母さんの特技は言葉だった。メッセージだった。その言葉に大勢の女性たちが救われた。ぼくと弟も母さんに支えられて生き続けることが出来ている。

母さんは書店で、自分の顔が印刷された本を見てどう思っただろう。それはわからない。そういうことを自慢する人でも、一喜一憂する人でもない。泰然とした人だ。辛かった戦争の時代にも、頭の手術をしても、どんな時も、弱音を吐いたことのない人だった。そして、厳しかった。そして、優しかった。人間はみんな母さんのおなかから生まれてくる。ぼくは母さんに捧げる本を出したかった。それが今日、発売になった。この作品は100パーセント、ぼくを産んで育ててくれた母に向けた感謝と愛の書である。そして、100パーセント、母さんが発したメッセージで構成された本でもある。
母親を持つおおぜいの子供たちに送りたい。母はずっと偉大である。

滞仏日記「いつの時代も母親は偉大である」

新刊「84歳の母さんがぼくに教えてくれた大事なこと」
KADOKAWA刊 全国書店にて発売中。

ありがとう。