JINSEI STORIES

滞仏日記「ご近所で力を合わせ、虐待を見逃すな」 Posted on 2019/11/13 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、とくに代わり映えしない毎日である。朝の7時に上の階の人の目覚ましがなり、天井が薄いので決まってそれで起こされる。上の階のジェロームのアイホンが定時で鳴る設定で、しかも彼はいつも携帯を床に直接置いている。そのせいで天井中が共鳴して、ぼくは心臓を鷲掴みにされてしまうのだ。やれやれ。

息子は勝手に朝ごはんを作って学校に出かけていくので、その時間、7時45分に、ぼくも玄関まで行き、いってらっしゃい、と送りだす。ドアが閉まる。本棚に、息子が赤ちゃんの時の写真が飾ってある。ぼくのハンチングをかぶり、口にはおしゃぶりを付けている。こんな時もあったのだと思って懐かしくなった。ぼくはコーヒーを淹れて、仕事場に行き、会社員の人が会社で仕事をするように決まった時間、パソコンと向き合う。あ、その前に日本のことが心配なのでササっとヤフーニュースに目を通す。

最近、きつかったのは、福岡の24歳の夫婦が一歳の赤ちゃんにエアーガンのBB弾を浴びせ傷害の疑いで逮捕。赤ちゃんには頭から足まで数十か所の傷があり、しかも栄養状態が悪く肺炎を起こし死亡、というニュース。その二日後、佐賀県で29歳の母が熱したアイロンで小学二年生の長女の頬や手にやけどを負わせ逮捕というニュースもあった。なんだか、最近、この手の児童虐待ニュースが多くて気が滅入る。虐待するために生む理由がわからない。BB弾は空き缶に穴が開くほどの威力があるのだ、苦しかったろう。抵抗できない我が子を標的にするなど、もはや人間ではない。鬼でさえ自分の子供は大事にするだろうに。きっとフランスでも虐待はあるはずだ。虐待は家庭内で起こるから発覚が難しい。

そういえば、上の階の幼い娘さんたちはしょっちゅう大声でぎゃあぎゃあわめいている。両親の怒鳴り声が聞こえることもある。フランスの場合、隣近所で監視しあっている。福岡の事件の時も誰かの通報で分かったようだけど、フランスは子供の虐待には隣近所が一丸になり神経質すぎるくらいの対応をとる。上の階が最上階で、横が今空き家なので、隣近所というのはうちだけだ。もし、あのジェロームが娘たちに虐待をしているならば、それを確認し通報するのはぼくの役目だと思った。子どもたちは階段ですれ違う時はとってもおとなしい。ジェロームはまるでベルギーの漫画タンタンにそっくりなキャラクターで、めっちゃ人の良さそうな顔をしているし、性格もほんわかしている。とても虐待をするようには思えない。でも、しかし、人間はわからない。優しそうな人が凶悪犯罪者ということはよくある。

そうこうしていると夕方になり、子供たちの声が聞こえてきた。階段を上がってくるのが聞こえたので、おせっかいかもしれないけど、確かめなきゃ、と思いドアを開けた。子どもたちのうしろにジェロームが立っていた。優しい笑顔で、やあ、と言った。やあ、とぼくは拍子抜けしながらも返した。娘たちに痣とかないか、素早くチェックした。「最近はどう?」とジェロ―ムに意味もなく聞いた。「うん、いいよ。そっちは?」と笑顔が戻って来た。「日本の虐待のニュースを読んで今日は暗くなっていたよ」と言った。「許せないね、虐待は」とジェロームが子供たちを抱きしめながら言った。疑ってすまない、と思った。子どもたちが笑顔でぼくを見上げている。「ちょっと待ってて、お菓子を焼いたところだから持っていきなさい」そう言って、ぼくは息子のために作った焼き菓子を二つ、キッチンから持ってきて与えた。「ムッシュ、ありがとう」と子供たちがかわいらしく言った。
「ジェローム、一つ君にお願いがある。目覚ましだけど、頼むから机の上においてくれないか、あれで毎朝たたき起こされてしまうんだよ」
ついでに小言を言っておいた。ジェロームは笑顔で、ごめんごめん、と謝っていた。杞憂でよかった。ぼくは安心をして仕事場に戻りパソコンに向かうのだった。

滞仏日記「ご近所で力を合わせ、虐待を見逃すな」