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滞仏日記「尾崎豊の思い出とブルックリンビール」 Posted on 2019/11/19 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ちょっと体調がすぐれず、家事もせず、仕事も手につかず、日中ずっと寝込んでいた。午後、15時過ぎに起きて、やっと動けるようになったので、ブランケット・ド・ヴォーを作った。結構、面倒くさい料理で、作り始めて後悔をした。夕方、息子が帰って来たので、彼の分だけ配膳し、ぼくはちょっと気分転換に散歩に出ることになる。何か物事を全部悪い方へ悪い方へと考えてしまう日だ。気分を変えなきゃならない。とにかくそういう時は歩け。雨が降っていたけど、友だちに貰った雨をはじくジャケットというのを着て、ぼくは傘もささずにずっと雨の中を歩いた。

滞仏日記「尾崎豊の思い出とブルックリンビール」



滅多に入らないカフェに入り、ビールを頼んだらブルックリンビールが出てきた。一口飲んだら、あの男のことを思い出してしまった。1980年代の後半、いつだったかちょっとすぐには思い出せないけど、夏のこと。ぼくはまだ20代だったけれど、マンハッタンのダウンタウンに滞在していた。滞在期間は2、3週間ほどじゃなかったかと思う。(この時期、ぼくは毎年のようにニューヨークに遊びに行っていた)だいたい、いつもワシントンスクエアの角のワシントンスクエアホテルに滞在した。尾崎豊が同時期ニューヨークに一年くらい滞在をしていた。ソニーオーデションで同じ年にそれぞれ優秀アーティストに選ばれ、彼が一年早くデビューを飾っていた。リハーサルスタジオやフェスなんかでよく一緒になり、べたべたつるんだことはなかったけれど、たまに下北なんかで飲んだりしていたからだろう、突然、連絡が入った。人づてにぼくがニューヨークにいるということを聞いたみたいだった。それで、ワシントンスクエアホテルにいるよ、と伝えた。

電話がなり、受付の人が、ミスターオザキが来たけど、と知らせてくれた。ぼくはすぐに階段を下りた。階段を下りた記憶があるので、二階とか低層階に泊まっていたのかもしれない。ワシントンスクエアホテルは入り口を入ると、当時、右手にフロントがあり、つきあたりにエレベーターと階段があった。ぼくが急いで階段を駆け下りると、フロントの前に白いシャツを着た尾崎がいた。あの満面の笑顔で、白い歯を見せつけるような感じで。入口からの光りで彼の身体がシルエットになり、なんだか映画のようだった。とってもさわやかな青年だった。ぼくらはとりあえずダウンタウンに繰り出した。歩きながら、いろいろと話し合った。
「ぼくのことはキーと呼んで」
と尾崎が言った。オザキの下のキが強調されてニューヨークの仲間たちにそう呼ばれているんだ、と言った。
「分かったよ。キー」

不思議なのはどんなに語っても語り足りない感じになった。当時、ビールを外で飲んじゃいけない法律があって、飲む場合は紙袋に入れないといけなかった。で、歩き疲れると、世に出たばかりで話題のブルックリンビールを何本かスタンドで買って(調べたら88年創業となっていた)、を紙袋に入れてもらい、話し足りないのでワシントンスクエアホテルに戻り、部屋は超狭いので、屋上に登って、広々としたホテルの屋上で飲み会となった。とにかく語り合うことが終わらなかった。彼が仕事に対する不満を抱えていたのは確かで、(ここには書けない)、もしかすると、ぼくがちょっと年上だったから、そこが東京じゃなくニューヨークだったからこそ、彼は心のもやもやを吐き出したかったのかもしれない。ぼくらは屋上に寝転んで、マンハッタンの空を見上げていた。明るかった空が暮れるまで、そこで語り合った。その時、尾崎は「もしかすると、もう音楽をやめてもいいかなって思っている」というようなこを言った。「寂しいこと言うなよ。ファンが聞いたらがっかりする」とぼくは諫めた。でも、その後に、尾崎はこう付け足したのだ。
「世界はこんな風に広いんだから、でも、自分は世界一のラーメン屋になる自信がある」
この言葉は忘れられない。いいじゃん、キー、とぼくは同意した。しかし、尾崎豊がラーメン屋を始めることはなかった。1992年に彼は死んだ。その間、ぼくらは一度も会っていなかった。その知らせを聞いて、ぼくが思い出したのはワシントンスクエアホテルの屋上で夜中まで飲み明かした時のことであった。屋上の囲い壁の内側に世界中の旅人がずらっと名前を残していた。真っ黒になるくらいの落書きで、あれがストリートペインティングの走りじゃないか、と思うほど、芸術的でもあった。そこでぼくらはいたずら心と若さのせいで、尾崎豊、辻仁成、と小さくペンで落書きしたのだ。(ごめんなさい)さすがにあれから30年が過ぎたので、もう残ってないとは思うけど、あいつの白い歯をむき出しながら無邪気に笑ったその時の横顔が忘れられない。葬儀にぼくは参列をした。
「この野郎、世界一のラーメン屋はどうすんだよ」
と思いながら、ぼくは手をあわせた。ぼくはまだ生きている。母さんがぼくに言った「ひとなり、死ぬまで生きなさい」という言葉に従って。

滞仏日記「尾崎豊の思い出とブルックリンビール」