JINSEI STORIES

滞仏日記「バーで囲まれ、ゴーン事件についてからまれた」 Posted on 2020/01/10 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、仕事と家事に疲れたので息子にご飯を作った後、行きつけのバーに呑みに行った。バーマンのロマンと握手し、ビールを頼んだ。仕事帰りの常連客(おっさん)たちがカウンターで陣取って呑んでいた。ぼくはいつものようにその中心に潜り込んだ。呑むときは黙って一人で呑むのが好きなタイプである。
すると顔馴染みのアランが
「おお、辻。カルロス・ゴーンの記者会見見たか」
と片頬を緩めながら訊いて来た。すでに酔っている。なんか言いたげだな、というのはわかっていたけれど、ぼくはちょっとこの手の話にうんざりしていた
「見たよ」
すると常連のフェリックスが、
「まあ、でも、ゴーンもね、金に物言わせて俺ら労働者からすると腹立つんですわ」
と言った。それをきっかけにカウンター中のフランス人、と言っても人種は様々、白人、アラブ系、など7、8人がこの会話に反応し、ぼくは一瞬、孤立した。黙ってビールを飲み干し、バーマンのロマンにウイスキーを注文した。その間に、常連客らはカルロス・ゴーン事件についてそれぞれの持論を展開しはじめていた。フランス人は議論好きだ。彼らはずっと喋っている。ゴーンさんを擁護する意見もあったけど、ぼくが聞いている限り、自業自得だね、みたいな発言も多かった。それと同時に、日本の司法への批判もくっついてきた。
するとアランがちょっと大きな声で、ぼくに向かってしつこく、
「日本人はカルロス・ゴーンにずいぶんと恥をかかされたな」
と言った。この恥という単語でぼくはカチンときた。

滞仏日記「バーで囲まれ、ゴーン事件についてからまれた」



そこでぼくはウイスキーを口に含んでから、
「ああ、そうかもしれないね、でも、日本人は楽器箱に潜んで無様な逃亡するような生き恥は晒せない。ルノーや日産のトップにいたあれほどの立場の人間が、こそこそと法律を犯して脱出するなんて、日本のサムライには逆立ちしても真似できない。そういう意味では君たちフランス人って凄いね。俺の感想はそれだけ」
と言ってやった。するとアランの顔が不意に強張って、
「いやいや、あいつはレバノン人だ」
と今度は言い出した。それに追随するかのように彼の周りにいた連中が慌てて、レバノン人だよね、と平然と声をそろえた。バカらしい。ぼくは黙って飲んだ。
するとアドリアンが、
「カルロス・ゴーンにフランス国籍を取得するよう勧めたのは実はフランス人なんですよ。勧めた人間はゴーンに『もしもフランスで社長になりたいならば、フランス国籍を取得した方がいい』と言ったって。まあ、いろんな力学が働いて彼はあんな風になった。何人とか関係ない。フランス人も、もしかすると日本人同様に恥をかかされたのかもしれない。彼はある意味、頭のいい人間だから…。あ、だから、この際、この話はここまでにしませんか」
と話を切り上げようとした。しかし時すでに遅し、アランとその客たちが言い合いになっていた。いやはや、フランス人は議論好きである。この話しは終わりそうにないので、ぼくはウイスキーを飲み干してから、早々に引き上げることにした。 

滞仏日記「バーで囲まれ、ゴーン事件についてからまれた」