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滞仏日記 「人が苦しい理由。僕が言いたかったこと」 Posted on 2019/01/30 辻 仁成 作家 パリ

滞仏日記 「人が苦しい理由。僕が言いたかったこと」

 
某月某日、今日は息子の友人のお母さんたちと食事をした。いわゆるママ友である。ママ友の中にパパが一人だが僕の場合違和感がない。今日のママ友はレテシアとイザベルの二人、ともに40代前半であろうか。レテシアが不意に「苦しみがとれないの」と僕に話を振ってきた。僕が作家だからかもしれない。「なんとなくいつも苦しいのよ。何がという理由がなくて、漠然と苦しい」「わかる。私もそんな時あるよ。自分のものが自分から離れそうな時とか特に」とイザベルが言った。そこで僕は「お子さんとか旦那さんとかのこともあるね。でも、苦しいのは人間だからだよ」と言った。「人間という生き物はモノや人に囚われて生きるもので、苦しみをやめることができない」二人が同時に苦笑した。「どうしたらいいの?」レテシアがもう一度聞いてきたので、「執着のせいなんだけどね」と前置きしてから、僕は少し長い話をした。その前に好物のモンブランを口に放り込んだ。甘いものには目がない。甘いものに物凄く執着がある。

変な話をするけど、笑わないで。人間が苦しいのは所有することが当たり前と思ってるからなんだよ。自分のものだと思うのに、それが自分のじゃなくなる時に苦しくなる。あらゆる苦しみはここに起因している。育てた子供が返事もしない、帰ってこない。それだけでなんとなく人間はロス感を覚え苦しくなる。レテシア、君はそうじゃないか? あんなにラブラブだったご主人が昔と違って遅くまで帰ってこない。イザベル、だから君は寂しいので苦しくなる。自分のお金も、自分の子供も、自分の夫も、自分の社会的立場とかに気が付かないうちに人間は執着しているんだ。子供への愛が深ければ深いほど、その子が離れるということで心は苦しくなる。原因は人間だからなんだよ。執着というのが人間の一つの仕方ない仕事だから。どんなに修行を積んでも消え失せないものが執着だろう。じゃあ、その苦しみから離れるためにはどうしたらいいのか、ということだけど、ある人は「なにものにも囚われない人間になりなさい」というかもしれない。しかし、これも実は執着の一部なんだよ。囚われない人間になる、という執着ね。執着から離れたいという執着から離れないかぎり苦しみから抜け出ることは出来ないのだけど、これ、簡単じゃない。変な話が続くけど、モンサンミッシェルで修行を長年積んだ人が地上に降りて、そこで知り合った幼い少女と仲良くなった。しかし、ある日、その子が不慮の事故で死んだんだ。その人はあんなに修行したのにやはり悲しんだ。当然。それが人間だから。どんなに修行を積んでも実は苦しみは生まれる。ただ、そのかわり、修行のおかげで苦しみを薄れさせる、和解できる、ある程度の力がついている。修行者でも涙は出る。それが人間性という人間の中で一番大事なものだ。心を捨て去ることは出来ないものね。執着と心はだいたい近い場所にあるので片方だけを消せないのだよ。

この執着はお子さんやご主人にだけじゃなく、食べ物や地位や思い出のモノにまで、ありとあらゆることに繋がってるんだよ。執着している人やモノを誰かに奪われないか、と考えるだけで人間は苦しくなる。私の息子よ、私の夫よ、これは私の家で、私の名誉で、私が出した成果だわ、と君はいつだって思ってるよね? 僕は思ってるよ。二人が笑った。「じゃあ、人間とは何か、レテシア説明できる?」「無理よ、それは作家であるヒトナリの仕事でしょ」とふられた。

自分とはいったい何か、突き詰めると面白いところに辿り着くよ。たとえばこの手は自分だけど、(僕はその手を彼女らの前に差し出し、動かした)でも、事故で手がなくなっても僕は消えない。肝臓や心臓も臓器移植できるので僕そのものじゃない。脳だって、僕の母親は開頭手術を受けたけど、今も僕の母親のまま生きている。記憶障害になっても、老化して行動が不安定になっても、自分が消えることはない。じゃあ、自分はどこに? もしかしたら死んでもその魂のレベルでは、まだ自分は残り続けている? 近代医学を信じる人は反対するだろう。でも、こうやって考えているということは、そこに自分の考えがあるということ。考えることは自分の仕業だからだ。それが自分に囚われている心によって動かされたものだということ。自分をどんどんばらばらにしていって、一番根本のところまでたどり着いたらそこに本当の自分を発見できるだろうか。それが心なのか、命なのか、というところまで行く時、そこにもう一つの自分がいるんだよ、執着が。
同じように一軒の家がある。それは誰が見ても家だけど、火事とかなんらかの力で破壊されれば、それは瓦礫に過ぎなくなる。その瓦礫は粉砕されて砂みたいなものになる。もっともっと小さくすることもできる。そうするともうどこにも家という概念は残ってない。何が言いたいかというと、この世界にある様々なことやモノや考えがあるきっかけによって合流し、因果の力によって形を結んだ時に、実態が生じているということ。人間が固執するのはこの実態の部分で、砂や素粒子じゃない。

一番人間が理解できない最大の苦しみが死だ。自分が死ぬということ。死が怖いのはそれまで抱え続けた執着の根底が消滅してしまうからでしょう。執着は死の前ではじめて無になる。生きている間に執着を無にさせたいよね? もしも、この執着から人間が少しでも離れることが出来れば、苦しみは多少改善されるということだ。「ヒトナリ、あなたの言ったことはなんとなくわかったけど、でも、結論から言うと執着を捨て去ることは私にはできない気がしてきた」とレテシアが言った。「同感」とイザベルが同意した。僕は「その通り、僕も執着を捨て去ることが出来ない」最初に言った通り、人間は執着を捨てきれないから人間なのだから。ただ、このことを理解して執着と向かい合う場合と、ただモノや人や栄誉に囚われ続けるだけの人生では意味が違うということ、は理解できるよね? 人は根本を見つめることでこの生きる苦しみと和解できるのじゃないかと考えてみてはどうだろう? 君も君の子供もある因果によってここに存在している。二人を構成しているものが愛だとしよう。その愛を執着から解放してあげればいいということ。そして、それは最終的には出来ないことだけど、しかし、思うことは出来る。「安心した。これでいいんだってことでしょ?」「ああ、僕の酷いフランス語を理解する力があるんだから、大丈夫じゃない? 子供が巣立っていけば悲しい、というのでいい。ただ、この悲しいことの原因が分かって悲しいのと、分からないで苦しいのとでは違うということだよ。つまり僕が言いたかったこととは」そして僕は、甘くておいしいモンブランをもう一口頬張った。その執着のせいで。