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退屈日記「死にたくなったら、空を見上げて」 Posted on 2020/07/28 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、時々、鬱っぽい感じになる。一番酷かったのはシングルファザーになった直後だったけれど、今までこういう経験がなかったので、最初は戸惑った。男性にも更年期障害があるというからもしかするとそうかもしれない。

家事子育てと仕事の両立に疲れてしまう。いつも自分を取り戻す時はだいたい子供を寝かせつけた後の寝る間際のベッドの中、「あ、また自分寝るんだ。また夜が来てしまった」と考えている時、或いは、翌朝のベッドの中で目覚ましを消した瞬間「あ、またいつもの朝だ、また朝が来てしまった。繰り返しじゃないか」と思う瞬間である。

この朝と夜の二回が延々と繰り返されている感じ。それを思う時は決まって「こうやって自分は年老いていくんだ。日々をなんとか消化するだけの毎日でいいのか」と勝手に結論づけては、勝手に焦ってるのである。芥川龍之介の「ぼんやりとした不安」を気取るつもりはないけど、いや、ぼくのは全然ぼんやりできない不安なのである。

退屈日記「死にたくなったら、空を見上げて」



でも、きっとこれは人間であるならば全ての人が大なり小なり抱えている不安であろうし、不安を抱えることこそが人間の仕事みたいなのだから、しょうがないことだ。なぜ生きているのか、と考えないでいられるなら楽だけど、考えるのが仕事のぼくはこのことから逃げられない。

けれども考えないでいいことまで考えてしまう作家という生き物はけっこうしんどい。ふてぶてしくならなきゃな、と自分に言い聞かせる。日記だから書くけれど、死にたい、と思うことがたまにある。面倒くさい、死んでしまえば楽になる、と思う人がいるのもよく理解できる。

でも、ぼくが死なないのには理由が幾つかある。もし、ぼくが死んだら血をわけた者たちがきっと悲しむからだ。それだけじゃなく困るだろう。こんなぼくでも誰かを支えているのだから。人間というのは寂しい動物だと思う。どんなに幸福な人でも、お金持ちでも、いつかは訪れる死を受け入れないとならないし、必ず別れが待っている。ここから免れることのできる人間はいない。

ならば、とぼくは考える。ぐずぐず生きるのも、メソメソ生きるのも、楽しく生きるのも、幸せに生きるのも自分が選択することじゃないか、と。実は、どれを選ぶのも人間にもともと与えられた選択肢なのだ、と。自分を幸福に導く方の道を選べばいい。

退屈日記「死にたくなったら、空を見上げて」

少し前のことだけど、息子と買い物に行く途中、路上にロマ人の若いホームレスの子がいた。彼らは仕事がないので、というか、仕事につくことができないので、だいたいグループを作って万引きとか窃盗をするのだけど、捕まっても戸籍がないのですぐに釈放される、そもそも移動民族なので送還される国がない。

普通は年配の女性たちが物乞いをしているのだが、珍しく青年であった。ぼくは時々、みんながそうするように、彼らに小銭を渡す。でも、その日は息子と変わらぬあまりに若い青年だったのでちょっと驚き、立ち止まってしまった。いつも見ないようにしている、普段持たない感情を抱えながら、お金を渡した。何を問われているのか、といつも思う。逃げ出したくなったり、自分を軽蔑したり、いろいろな感情が錯綜する中に、いながら。

どこに生れ落ちるのか人間は選ぶことができない。そこから這い上がりたくてもパスポートさえ、祖国さえない人間だっている。自分を幸福に導く方の道を選べない者もいる。ぼくは目を背けて、通り過ぎることが出来る。そういう時の自分にうんざりする。

ぼくの歌に「空」という歌がある。彼らに小銭を渡す時、彼らは「メルシー」というのだけど、彼らはだいたいぼくを見ていない。その視線は、ぼくを素通りしている。そして、いつも空に向かって彼らは感謝をしている。ぼくはその視線を追いかけ、慌てて背後の空を仰ぎ見る。そこに空があって、なぜかぼくは不意に恥ずかしくなった。ぼくの悩みも、人間であることの意味とかも。空はなぜ私たちが生きるのか、を問うている。どうすることもできない一生の中で人間は何を見つめるのか、厳しくも優しく、問いかけてくる。

ぼくが歌う「空」という曲はこちら⬇️https://youtu.be/El7A3XZdkog

退屈日記「死にたくなったら、空を見上げて」



息子はカトリックの学校に通っているがぼくは一度も宗教を持ったことがない。宗教に興味はあるけれど、なぜか、いまだ信仰は持ってない。でも、祈ることはある。それは息子や友人たちの幸せなんかを。息子がひたむきに生きている姿を見て、父として出来ることはなんでもしなきゃ、と考える。

実はそれが自分の生きる希望でもあり、今日生きぬく目的になっている。ぼくが祈るのは何に対してであろう。ホーキング博士が亡くなる前に「神はいない」というようなことを言った。でも、その神はいないという言葉を言わせているのが或いは我々が想像する神とかではなく、存在ではない存在、の力ではないかと思うことがよくある。

息子が外から帰って来て、ただいま、という。今日はどうだった? と訊くと、うん、よかったよ、と無表情に答える。でも、その偽りのないなんでもない日常の中に、ぼくを今日この世界にとどめる現実がある。その尊いものに感謝をすることが、幸せ、と呼んでいいものかもしれない。

またもう少し、生きてみようと思うのは、自分がささやかな幸せに気が付く瞬間だったりする。

ささやかな喜びとは立ち止まり空を見上げた時にどこからともなく手渡されるものだったりする。それは気づきかもしれない。「ありがたいことだ」となぜだろう、ぼくはまた空を見上げながら感謝をしてしまうのだ。自分の力ではどうすることも出来ないこの世界の中にいながら、そのありとあらゆることを受け止めながら、自分の小ささを確かめながら。
 

退屈日記「死にたくなったら、空を見上げて」



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