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聖ワリシイ大聖堂 Posted on 2016/11/08 辻 仁成 作家 パリ

承前
赤の広場の中で私がもっとも関心を持ったのが聖ワシリイ大聖堂である。

1555年にイヴァン4世(雷帝)の命で建立された聖堂、今でこそ普通に見える大聖堂だが、500年も前の人たちの興奮と感動を想像するのは難しくない。

「これよりも美しい聖堂が建てられることを恐れ、イヴァン4世は設計者のポスニク・ヤーコブレフの目を潰してくりぬいた」

聖ワリシイ大聖堂

私はこの話を学生の頃に知り、たいへんショックを受けたことがあった。
雷帝の残虐性を物語るこのエピソードだが、実はこれは逸話であり、史実ではない、ということが最近になってわかって来た。

都市伝説が生まれるくらいこの大聖堂が当時の人々に大きな感動と畏怖を与えたということであろう。

聖ワリシイ大聖堂

大聖堂は7つの塔を持っているが、全てが異なるデザインを有しており、シンメトリックな通常の教会建築法とは異なる。見る角度によってさまざまな表情を拵えるこの大聖堂の魅力が、この不統一なデザインによるものであることは疑いない。

聖ワリシイ大聖堂

私はモスクワ滞在中、早朝から夜遅くまで何度と足を運びこの大聖堂を眺めた。
むしろ今回のモスクワ旅行の一番の目的がこの聖ワシリイ大聖堂であった。
設計者は塔の形や壁の色にのみ工夫を凝らしたと思っていたが、そうではなかった。

この広場に屹立する大聖堂は太陽との関係が重視された。
刻々と光りの位置が変わることでこの7つの異なる塔が、まるで7つの日時計のようにそこに不思議な7つの時間を刻んでいく。

そのことを設計者ポスニクはちゃんと計算していたに違いなかった。

聖ワリシイ大聖堂

私たちはクレムリン宮殿へと向かった。

ロシア語では「クレムリ」と呼ばれ、城塞を意味する。
旧ロシア帝国の宮殿なのだが、冷戦時代の政治の中心地という印象が強く、クレムリンは常にアメリカのペンタゴンと対峙していた。クレムリンの入り口に立つ兵士たち。最初は蝋人形だと思った。

「パパ、見て! あれ生きてるよ」

よく目を凝らすと微かに動いている。
15分ほど眺めたが、私たちの方が根負けし、そこを離れることになる。
あの兵士たち、いつまであの姿勢を維持し続けたのであろう。

ロシア人の屈強さを思い知らされた。

聖ワリシイ大聖堂

そしてまさかクレムリンの中に入ることができるなどとは、モスクワに到着するまで私は想像さえしなかった。
いつも前もって調べて旅をすることがない。
なぜなら、新鮮な驚きは現地で、というのが私の旅のポリシーだからである。

「ま、わかったよ。パパのポリシーは。でも、そのくらい前もって調べておいた方がいいよ。時間の無駄だからね」

クールな息子に窘められながら、私たちは城塞の中を歩いた。
総面積26ヘクタール。構内には大小様々なパラーダと呼ばれる宮殿が林立し、複合的な建築空間をなしている。
宮殿というが、グラノヴィータヤ宮殿などは大聖堂のような佇まいをしている。
静かな空気が満ちた神聖な場所であった。

モスクワにいるというよりもどこか中東の王国にいるような感じを覚えた。

聖ワリシイ大聖堂

聖ワリシイ大聖堂

聖ワリシイ大聖堂

クレムリンの城塞の中は厳重に監視されており、警察車両の行き来も頻繁で、だからこそ、そこに自分たちがいるこの現実を通し、時代は変わったのだ、ということを実感させられた。

立ち入り禁止区域に私たち父子は間違えて侵入してしまい、兵士が駆け寄って来た。

ロシア語が飛び交い、よもや逮捕か、という場面であったが、ダスビダーニャ(さようなら)、と覚えたての単語をぶつけると、兵士たちは強張っていた表情を緩め、許してくれた。

聖ワリシイ大聖堂

20世紀、私たちが恐れていたソ連という国はこんなにのどかなところから世界と対抗していたのか。
ちょっと肩透かしをくらった感じを受けた。
それくらい今は静寂に満ち、そこは間違いなく、柔らかい光りが溢れる世界遺産なのであった。

辿り着いたからこそ知ることのできる世界というものを私は信じている。
知識だけでは満足できない私にとってそこまで行くということが一番大事な行為であった。
ここに辿り着かなければ書けない事実や感想がある。

何も知らない私たちだったが、今、一つだけ自慢できることがある。

赤の広場まで行ってきた、という事実だ。

いつの日か、息子はその日のことを思い出すだろう。
赤の広場の赤とはロシア語で「美しい」という意味だった。それまで私は「共産党」の赤だと信じていた。

Photography by Hitonari Tsuji