連載小説

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第9回   Posted on 2025/12/03 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第四部「地上、再び」第9回    

   「そうか、父親になったか」
   と黒点、野本店主がしみじみと嬉しそうに言った。
   俺はその喜びを打ち砕くように、これまでの経緯を、アカリに降りかかった精神的な問題なんかを時系列に沿って、手短に伝えた。
   野本は嘆息を溢し、「それは、かなり厄介やな」と唸った。
   「で、どうするつもりや」
   「わかりません。どうやったら、アカリが心を開いて、戻って来てくれるのか、それに、もっと厄介なのは、アカリがこの街そのものに匿われているということです」
   野本は黙った。こぶりの冷蔵庫から缶ビールを二つ取り出し、一つを俺に差し出した。
   野本は再び椅子に座ると、
   「時間が必要やな」
   とアケミと同じようなことを口にした。
   「お前が、ここで焦って突っ走れば、またトラブルが起きる。もっと厄介が増えるし、間違いなく、街全体が血に染まる」
   俺は残っていたお茶を飲み干した。野本は真剣な目で、俺の目を覗き込み、
   「一度、地元に戻って、心を鎮めてから、様子を見て出直せ。ニシキは怒りで煮えたぎっているから、和解とかは難しい。俺も、申し訳ないが、力を貸せない」
   「わかってます。これ以上、迷惑はかけられません」
   「戦争と一緒よ。ロシアとウクライナ、パレスチナとイスラエル、表向き終戦したとして、世界に和解なんか簡単にはあり得んからね、憎しみは100年経っても消えんし、また必ず再燃する。それと一緒や。父親になった今は、できるだけそういう諍い事に関わらん方がええ。アカリの気持ちが落ち着き、自分で気付くのを待つしかない。お前は静かな場所で息子さんのために今は生きる、それが一番だ」
   「・・・はい」
   俺は地元に帰る決意をした。これ以上、ここにいて、みんなに迷惑をかけることも出来ない。リンゴの元に戻り、まずは、彼の成長を見守ることが先決かもしれなかった。アカリの気持ちが落ち着き、母親としての心を取り戻すまで、俺はリンゴに寄り添う。あとは、時間が解決してくれる。小さく嘆息をつき、奥歯を噛み締めるのだった。
   「ま、とりあえず、父親になったことを祝おうか」
   野本は優しく微笑み、缶ビールを持ちあげると、
   「おめでとう。家族を大事にせーよ」
   と告げてから、ビールに口を付けた。

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第9回  

© hitonari tsuji



   俺は中央駅構内の目立たない場所で始発が動くのを待つことになる。中心地でうろうろとしているとやつらに見つかってしまう。人があまり通らない場所を選んで、潜むようにしゃがみ、じっと始発を待つことにした。仙人たちに挨拶をしたかったが、自分の決意が変わる前に一度出直そうと思った。携帯の待機画面の中にいる3人の写真を眺めた。いつか、こうやって笑顔で再会できる日が来る、と自分に言い聞かせた。この写真は幻ではない。ここに写っている3人は幻影なんかじゃない。現実の家族だ。生きることは簡単ではないが、諦めることもまた簡単ではなかった。俺は誰もいない地下街へと視線を移す。様々な想いが心の中を駆け巡っていくが、こんがらがった気持ちを一度ほぐさないとならない。
   その時、ラインに新しいメッセージが飛び込んできた。急いで携帯を覗き込んだ。『アケミ、写真を送信しました』と通知が出ている。
   どうやら、アケミからのメッセージのようであった。なんだろう、と思い、携帯を開き、ラインに移動し、アケミのメッセージを開いたら、その衝撃的な写真に、目が釘付けとなった。
   それは、電柱のようなものに、荒縄で縛り付けられたアケミの痛々しい姿であった。生きているとは思えない悲惨な恰好だ。衣服は引き裂かれており、ズボンもパンツもずり下げられていた。アケミは、まるで十字架に張り付けられたキリストのような恰好でその鉄柱のようなものにぐるぐると括り付けられている。俺は目を見開き、言葉も出ず、携帯を覗き込む。アケミの頭部は項垂れており、どういう顔をしているのか、今一つ、分からない。すると、まもなく、さらに二枚続けて、新しい写真が送り付けられてきた。

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第9回  

© hitonari tsuji



   二枚目の写真はアケミの頭部を何者かが掴んで引っ張り上げているもので、アケミは酷く殴られ、顔が変形している。閉じた目は腫れ、口から血が流れ出ていた。意識はなさそうで、死んでいるようにさえ見える。俺は、怒りの前に、激しい後悔の荒波に飲み込まれてしまう。アケミに起こった悲惨な仕打ちを想像し、心臓が破れそうになった。俺のせいで・・・。俺のせい・・・。
   腹の底から、くそ野郎、と大きな声が飛び出してしまう。
   アケミの頭部を引っ張っている男の写真が三枚目だった。ニシキが目をひん剥いて、レンズを睨みつけ、不敵な笑みを浮かべていた。悪魔のような形相で、俺を見ている。挑発するような、過激な顔だ。くそ野郎・・・。すると、続いて、短いメッセージが飛び込んできた。
   『次はアカリだ。しゅう、覚悟しとけ』

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第9回  

© hitonari tsuji



   俺は、一枚目の写真を拡大した。すぐに場所は特定出来なかったが、遠くに高層ビル群が見えた。アケミはどうやら、この街の中心を貫く、大通りの中央分離帯にある、たとえば信号機なんかに張り付けられているに違いなかった。
   アケミにまで・・・。
   俺は次の瞬間、走りだしていた。地下街を突き抜け、地上に再び、飛び出した。写真の場所がどこだか分からなかったが、とにかく、アケミを救出するために走った。大通りへと向かった。雨が降りだし、顔にひたひたと張り付いて来る。俺は繁華街の周辺を必死で探し回った。けれども、すぐには見つけられなかった。
   携帯を取り出し、写真を拡大し、背後の景色、看板や、ネオンライトなどから、実際の場所を割り出そうと努めた。その時、遠くからサイレンの音が響いてきた。それも一台じゃなく、複数台の救急車両のサイレン。夜明け前のこの街のあちこちでこだましはじめた。俺は、耳を澄まし、サイレンの方向を確認する。いくつかのサイレンが、四方八方からこの街の一か所を目指して、集まっているのが分かった。俺は周辺を何度も振り返り、サイレンがどっちへ向かうのか、調べた。まもなく、そのけたたましい音が、一つの方向へと収斂していった。その先に高層ビル群が聳えていた。いつも、灯っている上限を示す赤いライトの明滅が目に飛び込んできた。
   俺は再び走り出す。いくつかの路地を通過し、通りを渡り、大通りへ飛び出すと、パトカーや救急車両が遠く繁華街の入り口あたりに数台停車しているのが見えた。やや速度を落とし、大通りの反対側から、その様子を確認した。数名の警官が通報者と思われる若者たちに、聞き取りのようなことを行っていた。見物人も多数集まっている。居ても立っても居られず、小走りで横断歩道を渡った。そして、現場検証をする警官たちに背後から忍び寄った。中の様子を見つめる。停車している救急車の後部ハッチが開いているのが確認出来た。治療をする救急隊員の背中が見えた。救急車の中に、横たわるアケミらしき人物も見えた。警官がやって来ると、屯する人だかりに向かって、
   「はい、そこに溜まらないで、向こうに渡ってください」
   と忠告した。
   俺はニット帽を目深にかぶり直し、通行人と一緒に再び大通りを元の場所へと戻ることになる。不意に救急車のサイレンがひときわ大きく鳴り出した。アケミを載せた救急車両が、大ガードの下を潜って視界から消えるまで、俺はずっとそれを目で追い続けた。激しい憤りと悲しみと怒りの中にあった。くそ野郎。ニシキが、まだこの辺にいるかもしれない。俺は四方を振り返り、ニシキらを探した。
   奥歯を噛み締め、沸騰する怒りの感情と共に、降りしきる雨のネオン街を睨みつけていた。

次号につづく。

  
※本作品の無断使用・転載は法律で固く禁じられています。

連載小説「泡」第四部「地上、再び」第9回  

© hitonari tsuji



辻仁成、展覧会情報

2026年、1月15日から、パリ、日動画廊、グループ展に参加。
2026年、11月に、3週間程度、フランスのリヨン市で個展、予定。詳細は後程。
2026年、8月、東京での個展を計画しています。詳細は待ってください。

辻仁成 Art Gallery
自分流×帝京大学



posted by 辻 仁成

辻 仁成

▷記事一覧

Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。