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月族 其の四 Posted on 2019/12/21 辻 仁成 作家 パリ

<strong>月族 其の四</strong>

飛鳥の世界
 
2、
この物語は終わりが見えないくらいに長大だから、どこから話しはじめていいものか、何をまず語るべきか、でぼくを悩ませる。
話さなければならないことがあまりに多すぎるし、どれも月族にとってとっても重要な問題を含んでいる。
しかし、だからと言って、いきなり話して、はじめてそれを聞いた人たちがいきなり接続できるような世界でもない。
壮大過ぎる絵巻を捲り続けるような困惑、終わりのない流転の物語を聞き続ける困難に聞き手は陥るかもしれない…。
でも、そうだな、まず、ここから話しはじめることにしよう。
ぼくに月族のことを教えてくれた、というのかぼくを月族の一人だと最初に指摘した人物について…。
その人とは今から十年ほど前のことになる、ぼくの両親の生まれ故郷、京都で出会った。
祖父の家は、鴨川のほとりにあってね、古くから代々続く歴史的な家屋で、といってもそこらへんの家々はどれもこれも同じような造りだから、区別もつけられないのだけど、…。
夏休みだったから、ぼくは祖父母のところに母さんと遊びに行っていた。
盆地だから、とにかく暑い。呼吸ができなくなるくらい暑い日が続いていて、路地という路地はどこも熱のせいでむっとしていた。
ぼくは十歳とちょっと、どこにでもいるような普通の少年、悪戯好きな明るい元気な子供だった。
鴨川の河原で、祖父母に紹介された近所のほぼ同世代の子供たちと遊んでいた時のこと。
ぼくは不意に激しい胸の痛みを覚えて倒れてしまう。
落雷を受けたようなものすごい激痛が背骨を駆け抜けた。
倒れる時に、視界を交錯した光だけが網膜に焼き付いた。
すぐに救急車で近くの病院に運ばれ、緊急の手術を受けることになる。
何日間も昏睡状態が続いたのだ。
ほとんど何も覚えていないけれど、ただ、ぼんやりと、はっきり顔とか姿形は分からないのだけど、誰かがずっとぼくの周りにいて、ぼくを見守っているような、そういう記憶だけが残っている。
その人たちはぼくを取り囲んでいて、静かにじっとぼくを見ているだけだった。
そして目が覚めた時、体にはたくさんの管が刺さっていて、病院のベッドに横たわっていた。
思えば、あの日から今日までぼくはベッドから離れることができない生活をおくることになる。
最初、しばらくの間は入院していたのだけど、自宅療養ができるようになっても、もちろん、歩けるようになっても、ぼくは家から出られなくなった。
正確には、出ようと思えば本当に短い時間ならば出られるのだけど、外の社会で健常者と一緒のリズムで生活することはできない。
当然、学校に行くこともできず、こうやって、自宅で一人おとなしく過ごさなければならなくなった。
運動はできないし、あまり長いあいだ動き回ることはできない。
もちろん、夜更かしもダメ、暴飲暴食はもちろんダメ、興奮してもダメなんだ。
でも、寂しいと思ったことはないんだよ。
なぜなら、ぼくの近くにはいつもお月さまが寄り添っていたし、ぼくの話し相手になってくれたし、ぼくは何よりいつも月に励まされ自分を保つことができていた。
入院中も、現在も、窓越しに月を探すのがとても好きでね、だから君を見つけることもできた。
地平線の彼方だったり、木々の間だったり、真上だったり、とにかく、どこかには必ずお月さまがいて、ほほえんでくれたのだ。
この家には反対側に同じような造りの部屋があって、そこにもベッドがあるから、新月じゃない限り、曇りじゃない限り、ぼくは一年中月を必ず見つけることができた。
その美しい光はいつもぼくに向けられている。
いいや、実際には世界中の人に均等に分配されているのだけれど、勝手なもので、ぼくはずっと月は自分のためだけに輝いてくれているものだ、と思い込んで疑わなかった。
前置きが長くなったけど、とにかく、月族のことを詳しく教えてくれたその人物とはね、担ぎ込まれた京都の病院で親しくなった。
その人も入院していた患者さんで、藤原さん、といった。
米寿の祝いを終えたばかりと言っていたので、八十八歳だった。



あれは、満月の夜だった。
ふっくらとしていて、それでいて堂々としていて、涼しくて、なんというのだろう、見ているだけで心が清められていくような神秘的な輝きを持った月が、夜空に浮かんでいた。
浮かぶというのがまさにぴったりな、浮遊するような感じの揺らぐ月でもあった。
退屈な病室を抜け出して、本当は歩くことは許可されていなかったけれど、もっと間近に月を感じるために、ぼくはゆっくりと非常階段を上って、屋上へと出ることになる。
呼吸が苦しかったけれど、平気だった。そこまで行くことがぼくのミッションだった。
月に近づきたい、とぼくは痛む胸を我慢しながら上ったんだ。
風も吹いてなく、車も走ってなく、とにかく、それはそれは静まり返った夜のことだった。
何かに誘われるような感じで、ただ、月光に導かれるように、屋上の中ほどまで行くと、顎を突き出し、静かに月を見上げた。
柔らかく包み込むような月光だった。まだ生きているんだな、と月に向かって感謝しながら、ぼくはその光を浴び続けていた。
しばらくして、どこからか声が、まるで遠い宇宙から届けられた信号のように、した。
柔らかい声であった。
__君もお月さまに誘われたんだね。
慌てて声のするほうを振り返った。
屋上には先客がいたんだな。
それが藤原さんだった。
外出を禁止されていたので、ぼくは慌てたよ。
でも、月光が眩しくて、逃げ隠れできる場所はない。
仕方がないので、はい、と返事をした。
藤原さんはほほえみながら、月を見上げている。
ぜんぜん気がつかなかった。そこに誰かがいるとは思わなかった。
少し離れていたからか、そこに洗濯ものを干すポールがあったからか、取り残された洗濯物が数枚残されたままだったが、ともかく、気づかなかった。
藤原さんは、まるでペンギンが餌を飲み込むような恰好をしていた。
両手を腰のところに当てて、顎を突き出し、天空を見上げていたのだ。
ね、想像してみて、笑っちゃうでしょ。
かくいうぼくも同じような恰好をして輝く月を見上げてみた。
見事にまるい月だった。
すごい力を感じたよ。
すると藤原さんが、君もどうやら月族のようだね、と言いだしてね。
もちろん、月族という言葉を耳にしたのはそれがはじめてのことだった。
なんのことやら、その時は今の薬子さんと同じで、意味がさっぱり分からない。
藤原さんは同じ階だったけど、ぼくのような個室ではなく、大部屋にいた。
そこはベッドが六つも入った、少し騒がしい病室だった。
藤原さんのベッドは窓際にあり、彼はいつも一人で本を読んでいた。
ほかの患者さんたちのところには家族がひっきりなしに訪れていたけど、藤原さんはいつも一人だった。
ご家族のことについて質問したことがある。
すると藤原さんは、この地上に家族はいない、お月さまがいるから寂しくはない、と言った。
看護師さんたちが、藤原さんの家族のことを噂しているのを聞いたことがある。
藤原さんには娘さんが一人いるのだけど、その人は一度だけ病院にやってきただけだった。
遠方に住んでおり、子供の世話が大変なので来れない、と言い残したという。
藤原さんは奥さんを病気で亡くした後、ずっと一人で生きてきたのだそうだ。
日に数度、ぼくは歩行練習を兼ねて、藤原さんの病室を訪ねるようになった。
そして、そこで、ほぼ一日中、じっくりと月族について話を聞かされることになる。
さっきぼくが話したようなことからはじまって、もっと壮大な月と月の一族の物語へと至る、ありとあらゆる歴史の絵巻を…。
最初は半信半疑どころか、あまりに突拍子もない話しなので、信じたくても分からない。
でも、自分の肉体に起こったこの不条理な出来事と一生向き合って生きて行かなければならない、と悟った頃から、なぜだろう、次第に少しずつ信じるようになっていく。
理解したというよりも、自然に分かっていった、と言ったほうがいいかもしれない。
忘れていたことを思い出させてくれたとも言える。
でも、藤原さんの話を最初から全部信じたということではないよ。
本当に少しずつ、ちょっとずつ信じて、というのか、認識していくことになるんだけど…。
気がついたら、なるほど、それはぼく自身の物語でもあったわけだ。



ある日、ぼくは藤原さんに言われた。
じつはね、飛鳥君、わたしはもうじき、月に帰るのだよ、と。
__そうさ。月に帰る。
彼ははっきりとそう口にした。
__だから、その前に君に月族について、わたしの知るすべてを語っておかなければならないんだ。
彼は時間の許す限り、語り続けることになった。
これからぼくが薬子さんに順序だてて伝えていくことは、実は藤原さんがぼくに語った内容と一緒なんだ。
藤原さんは彼の語り方と速度で淡々と語ってくれたんだよ。
もちろん、ぼくはそれを一字一句正確に覚えているわけではないし、伝えることはない。
ぼくの言葉に変換されているし、あるいは多少、ぼくの解釈が付け加えられているかも。
藤原さんも自分の言葉で喋っていたから、そうやって、物語は人を介する間に、当然、少しずつ変化していく。
伝言ゲームにちょっと似ているかもしれない。
でも、月族の多くの人を介して伝言されたことで、そこには集団的創造が存在する。
実はこの集団的創造こそが月族が月族である最も重要なゆえんなのかもしれない。
そのことはちょっとだけ頭の片隅に入れておいてほしい。
そして、君も、この物語を誰かに話す番が来たら、君の言葉で語ってもらって構わない。
藤原さんも誰かからこの伝承を受け継ぎ、誰かに伝えていったのだ。



藤原さんは来る日も来る日も月族の物語を語った。
そして、ある日、ついに、ここまでかな、と彼は言った。
藤原さんは、飛鳥君に話すべきことはこれで全部だよ、と最後にそう呟いたのだ。
わたしのこの地上での最後の役目は終わった、とね。
声は乾ききっていたけど、達成感に溢れた、清々しい顔をされていた。
彼はぼくの手をつかみ、万事うまくいくことを祈るよ、と言い残した。
そして、その夜、彼は月へと旅立っていった。
看護師さんは泣いていたけど、ぼくは悲しくはなかった。
その夜もやはり満月で、ぼくは屋上に上り、月と向かい合った。
まるい光の中を小さな点が月へ向かって昇っていくのが見えた気がした。
あれは、藤原さんを乗せた船ではなかったか。
そう、藤原さんが最後の最後に言い残した言葉をぼくは今もしっかりと思い出すことができるよ。

月族はやがてすべて月に帰らなければならない。
けれども、簡単に帰ることはできない。
命のある限り、与えられた試練を全うしなければならない。
生はつまり魂の旅そのものを意味する。
命の意味をじっくりと考察した後で、ようやく月へ帰還することが許されるんだ。
月に歓迎されるように、日々、静かに努力を重ねなさい。

藤原さんとの日々は短かったけど、大きかった。
彼は今も月の中にいる。
どんなに寂しくても、月を見上げればそこに月の一族がいる。
これほどすばらしいことはないね。
このように月族同士は、自然と出会うことができるんだ。
薬子さんとぼくがこうして出会ったのは、月族の波動を持つ者同士だからだ。
果たしてこのような経緯の中でぼくたちは出会った。
ぼくは君にバトンを手渡さなければならない。
君が自身を月の民の末裔であるとどこまで真剣に信じるかどうかは分からないけれど、でも、おぼろ月のような確信はある。
心を閉ざさず、君はぼくの話を聞くことができる。
そして信じるかどうかは、君自身にゆだねられている。
いつ、どこで、そのことに気がついてもかまわない。
何気ない、ふとした瞬間に、月族であったことを理解ではなく、自然に知る、あるいは思い出すことになるのかもしれないね。
ぼくは君に、信じてもらえますか、とは聞かない。
君が信じないわけがないことを知っているからだ。
ただ、完全に理解するようになるのに、時間が必要なだけだ。でも、それもたいした時間ではない。月族が繋がって来たこの長大な時間の前では…。
すべてを理解するのは、もしかしたら、ぼくが月に戻った後かもしれない。
自分が月族であると自覚するまでに、もう少しの月日が必要なのは間違いない。
でも、ぼくには分かる。
君はいつか自分が月族の一員であることを悟ることになる。
それはぼくや藤原さんが通ってきた道のりと同じだからだ。
君は静かに耳を傾けていればいい。
そう、ぼくの語る物語に。

 
©️Hitonari TSUJI
本作の無断掲載、無断複製(コピー)は著作権法上での例外を除き禁じられています。また、スキャンやデジタル化することは、たとえ個人や家庭内の利用を目的とする場合でも、著作権法違反となります。
 

 
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