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月族 其の五 Posted on 2019/12/29 辻 仁成 作家 パリ

<strong>月族 其の五</strong>

薬子の世界
 
3、
まーちゃんは笑うに決まっているので、言わないことに決めた。
あの銀杏屋敷で飛鳥という風変わりな青年から聞かされたことは自分の胸の中だけにしまっておくことにした。
誰かにちゃかされて、気分を悪くしたくなかった。
だから、飛鳥の母親にも、何も言わなかった。
__どうでしたか。
と訊(き)かれたので、
__人の話を聞くのはいい勉強になります。
とだけ答えておいた。
飛鳥の母親は、飛鳥がわたしに何を語ったのか、きっと、ある程度は分かっていたと思う。
その時の彼女の表情から、うっすら感じ取ることができた。
でも、わたしは多くを語らなかった。
混乱していたし、どこかで全部を信じていなかったし、何よりも彼は、つまり飛鳥は病人なのだから。
人の話を聞くのはいい勉強になります、と言いながらも、わたしの心は揺れていた。
だって、あんなこと、はいそうですか、と信じられるような単純な話ではないもの。
わたしは自分のアパートに戻って、飛鳥の言ったことを何度も心の中で取り出しては検証してみることになる。
月族という言葉を裏返し、ひっくり返し、あげくに国会図書館にまで出かけて月族について調べてみたのだけれど、分からなかった。
わたしが短絡的に導き出した結論は以下のようなこと…。
本人もちらっと言っていたけど、たとえば、飛鳥は長い闘病生活の末にあのような妄想を頭の中に生み出してしまった、のではないか…。
苦しい現実から逃避するため、奇妙な想像を拵えてしまったのだ、とは考えられまいか。
なるほど、そうであれば、納得できる話でもある。
よくできた嘘だったが、でも、完全に嘘と言い切っていいものか、は悩むところ。
確証はもちろんないが、彼が言うとおり、話の端々を信じることもできた。
いいや、心のどこかに、そうであればいいな、という希望もあった。
自分が月族の一員だなんて、それにしても、なんて面白い想像だろう。
でも、やはりそれを素直に信じることなど、到底できることではなかった。
まあ、嘘でも本当でもどちらでもかまわない、とわたしは結論づけることになる。
ようは、わたしが飛鳥の物語をどう受け止めるか、だけが大事なのである。



真夜中にわたしは洗濯をした。
真夜中に洗濯をすると、心が休まるのはわたしだけ?
いつものコインランドリーで、たった一人…。
洗濯機のドラムがゴトゴトと回転する音がわたしを幸せにさせる。
誰もいない、わたしだけのプライベートな空間。
いつもの行為、いつもの安心感、いつものわたし、日常…。
ところが、洗濯機の上に座って本を読んでいると、三十分ほどして一人の青年が顔を出した。
__こんにちは。はじめまして。
不意に声をかけられ、わたしの日常が邪魔された。
その人は見かけによらず、律儀な挨拶をする人でもあった。
見かけによらずと思ったのは、その恰好が流行りのファッションを敏感に取り入れた、ある意味、とっても現代風のものだったからで、恰好と釣りあわない丁寧な挨拶の仕方に違和感を覚えたのだった。
人は見かけによらない。
わたしは本から顔を上げて、こんばんは、とそっけなく言った。
青年は間違いに気がつき、こんにちはじゃなくて、こんばんはでしたね、と苦笑し、わたしの横の洗濯機を使いはじめた。
コインを入れて機械を作動させると、青年はすばやく洗濯機の上に飛び乗ってみせた。
なんとなく盗み見されているような視線を感じたので、途中で本を下ろし、青年を見た。
もちろん抗議するためだったが、あまりに距離が近すぎて、目と目が数十センチのところでぶつかり合い、どぎまぎしてしまった。
それで、情けないことに、なによ、と訊き返すにとどまった。
__いや、いつも同じ時間帯にここで会うから、話しかけるべきかな、と思って。
__いつも?
__そうだよ。いつも、君はこの洗濯機の上で本を読んでいる。ぼくのこと、気がつかなかった?
わたしは、ううん、ぜんぜん、と答えた。
__ぼくはね、一年くらい前から気がついていた。でも、二人きりになるきっかけがなかなかなくて…。いや、実際には何度かあったんだけど、でも、いきなり声をかけていいものか、迷って、今日までけっこう時間が経ってしまった。
わたしは、この青年が何を言っているのか意味がわからなかった。
とりあえず、本を閉じて、姿勢を正し、青年を見つめ直す。
__よく分からない。おっしゃっている意味が。
ジーパンは腰の低い位置ではかれていて、ちょっとだけブリーフが顔を出している。
きっとこれもファッションなのだ、わたしは好きじゃないけれど…。
大きめの長袖のTシャツには英語の文字が書かれてある。
なんて書かれているのか、は判読不能。
正直に言えば、今風を決め込んでいるが、恰好いいのか悪いのかよく分からない。
いや、どちらかと言えばダサいかもしれない、少なくともわたしの趣味じゃない。
でも、優しい目をしている。
うん、それくらいはわたしにでも分かる。
__だから、声をかけるまでに一年もかかったということだよ。それから、そうは見えないかもしれないけれど、ぼく、すごくどきどきしている。自分が何を言っているのか、頭がぼーっとしていて分からないでいる。もしも失礼なことを口走っていたらごめんなさい。
わたしは、はあ、と相づちを打った。
__この後、どうやって自分の気持ちを君に届けていいのか分からないでいる。とりあえず、自己紹介してみようかな。ぼくはリンゾウ君。このすぐそば、そこを右に出て、数十メートルのところで暮らしている。美大生だけど、学校にはほとんど顔を出してなくて、で、ちょろちょろテレビの大道具の会社なんかでアルバイトしている。働きながら、自分の部屋で作品を描きつづけているんだ。
外国映画のように、青年は右手を突き出して、握手を求めた。
わたしはしばらくその手を見つめた。
女性のように細い、しなやかな手だ。
でも、よく見ると、爪の中に絵の具が残っている。
言っていることが嘘ではない、と分かっていくらか安心した。
握手くらいいいだろう、と思い、その人の手を握ってみた。
ものすごく冷たい手だ。
驚いてすぐに引っ込める。
何かとんでもないものを手渡されたような驚きを持った。
__自分のこと君づけするのおかしくないですか?
__え? べつに、悪くないと思ってる。ぼくらしい…。
この手の男子、苦手だな、と思ったけど、リンゾウ君の笑顔が憎めないので我慢した。
どういう絵を描いているのか少し気になった。
__で?
男性から声をかけられたのは 生まれてはじめてに近い経験だったので、わたしもかなり緊張気味だった。
でも、なんとなくだけど、立場的には優位な気がした。そうだ、わたしが優位、珍しいことに。
向こうから話しかけられたので、優位だった。
うん、悪くない。
胸を張って、目をそらさず、訊き返してみる。
__で? なんでしょう?
__いや、一年もの間、こうやって話ができる日のことを夢見てきたわけです、リンゾウ君は…。
わたしは言葉に詰まった。
そして数秒後、噴き出してしまう。
わたしの笑い顔を見て、リンゾウ君も口元を緩めた。
__一年もの間?
__ああ、実は、チャンスを狙ってたんだ。こうやって出会うきっかけを持つことができてめちゃうれしい。あとは、猛然とアタックするのみだ。
わたしは笑うのをやめて、リンゾウと名乗った青年の顔を真剣に覗き込むことになる。
この人、わたしを騙しているんじゃないかしら。もしくは、からかっている、とか…。
__アタックって?
__あ、いや、だから、自分の気持ちを届けるってこと。
__気持ちって?
__だから、一年もの間、ずっと思っていた、とさっき言った。
は? わたしはうろたえた。
今まで一度も恋をしたことのないわたしに、この人は恋心を打ち明けているようだった、このわたしに…。
わたしは焦って、青年から視線をそらしてしまった。この人、あたま、大丈夫?
困りながらも、どうしていいのか分からず、複雑な笑みを口元に浮かべて俯くことしかできなかった。 

 
©️Hitonari TSUJI
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