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月族 其の六   Posted on 2020/01/19 辻 仁成 作家 パリ

<strong>月族 其の六</strong>  

薬子の世界

4、
深夜営業のカフェで真夜中、わたしたちは向かい合うことになった。
リンゾウ君の話術は、まるでプロのコメディアン並みに長けているからか、彼自身の人なつっこさと相まって、話せば話すほど、惹きつけられた。
どうでもいいバカな話に、寂しさが紛れたし、癒された。
わたしは一緒になってけらけらと笑ってしまった。
わたしに話しかけるためにリンゾウ君がこの一年間で使った洗濯代は数万円にのぼるという。そのことがわたしを笑わせ、同時に不思議な緊張感を連れてきた。
__気がつかなかった。あなたがわたしを見ていたこと。
__まあ、ぼく、目立たないからね。ハンサムでもないし。
__そんなことないよ。ハンサムって何を基準に言うのか分からないけど、悪くないと思う。
__マジか? 悪くないでしょ? ちぇ、こういう時に限って周りに誰もいない。自慢できねぇじゃん。
わたしは笑いをこらえた。
失礼かな、と思ったが、こらえようとすると、次々におかしさが溢れてきた。
たいして面白いことを言ってるわけじゃないのだけど、この人の自然なおかしさに救われた。
リンゾウ君は頭を掻きながら、白い歯を見せつけるようにして大笑いをしてみせた。
好きな芸人さんにそっくりな人がいる。ハンサムじゃないけど、でも、人に嫌われる要素のない、むしろ万人受けする雰囲気を持った人。
悪くない、という言葉が、頭の中で広がっていく。
彼のしなる優しそうな目を見つめてしまった。
数秒、二人の視線が止まった。微笑んでいた彼の顔がちょっとだけ真顔になった。
こういう気持ちが恋というものかな、と考えて、奇妙な鼓動におそわれてしまう。
でも、その次の瞬間、ふっと脳裏に飛鳥のことがよぎった。
ベッドに腰かけて窓外を眺めているあの青年の横顔…。
何か後ろめたい、変な気持ちに邪魔されて、わたしは視線をそらしてしまう。
リンゾウ君の横顔と飛鳥のそれはまったく似ていない。
別の次元のものだ。
現実と空想の世界くらいの違いがあるかもしれない。
触れることのできるものと、決して触れることのできないもの、との違い。
明るさも決定的に違っている。
リンゾウ君はとっても身近な空気感を纏い、そこはかとない温もりがあった。
まるでひなたぼっこがしたくなるような午後の縁側のような人。気にならない太陽のような人。
飛鳥は真逆で、とにかく遠い存在であり、青白く静かに灯っていて、惹きつけるものの質が異なり、彼のことを考えるとなぜだろう、胸が締め付けられ、それはまるで夜空にひっそりと浮かぶあの月のよう…。
__ねえ、恋人はいるの?
リンゾウ君がせかすように訊いてきた。
わたしは飛鳥の顔を思い浮かべながら首を左右に振った。
__じゃあ、恋人募集中?
仕方がないので、数秒考えてから、むしろ成り行きで、頷いてしまった。でも、頷いた後に後悔をした。募集してたっけ?
リンゾウ君は本当に幸福そうな顔で小躍りしながら、やったね、と叫んだ。
__ちょっと待って。わたしは生まれてから一度も恋をしたことがないの。だから、恋人募集中かどうか、正直、判断できないのよ。
打ち明けると、へえ、珍しい、と青年は言った。
__君は? 何度も恋をしてきたの?
訊き返すと、青年は、はにかんでみせてから、
__何度もじゃないけど、今までに二人、恋人がいた。
と正直に告白した。
二人という具体的な数字が生々しくもあり、同時に羨ましくもあった。
恋人が二人いたというイメージは掴み切れなかった。それが、この人の年齢として多いのか少ないのか分からなかった。とにかくわたしよりは多いことだけは理解できた。
__ふーん、どうやって出会って、どうやって別れたの? やっぱりコインランドリーで出会ったりしたの?
青年は噴き出し、まさかぁ、と大きな声を張り上げた。
__初恋の相手と恋が実って高校生の頃にお付き合いをしていたんだ。二度目の恋に比べれば、かわいらしい恋だった。美大に入ってすぐに本格的な恋…。相手には恋人がいて、それを奪うようなものすごいものだった。なのに、二年くらいお付き合いをして、その人が別の人、ぼくの親友と関係を持ってしまって、ねぇ、ひどくない? マジでショックだったよ。で、呆気なくおしまいに…。悲惨だったぁ。それからは絵一筋で生きてきたんだよ。話すとこんなに呆気ないんで、ぼくもびっくりした。でもその時その時はすごく切実で、毎日ドキドキしたり、毎日へこんだりの繰り返し、いや、恋って力がいるよ。
わたしは頷きながらも、自分が三番目になるのか、と考えてしまい、ちょっと複雑な気持ちになった。
__どうしたの?
優しそうな声でリンゾウ君は心配してくれた。
経験が豊富なことは悪いことじゃないし、苦い経験があるので、優しく大事にしてくれるかもしれない、と思った。あ、そこまで考える必要もないか、…。
あまり深く考えないで、この人とお付き合いしてみるのも悪くないかも…。
__わたしははじめてだから、男性との付き合い方を知らない。リンゾウ君、教えてくれる?
そう言うと青年は、もちろんだよ、まかせてよ、ぼく、こう見えても、ものすごく紳士なんだから、と大きな声で言って、笑顔を浮かべた。
紳士? わたしは噴き出してしまった。



深夜営業のカフェを出ると、道の上に月が出ていた。
少し欠けた月だ。
自分はどうしたいと思っているのか、分からなかった。
リンゾウ君と別れた後、わたしは月に導かれながら、ふらふら夜の下北沢を彷徨った。
そして、気がつくと銀杏の木の前に立っていた。
風が吹くと、銀杏の葉が音を立てて、さわさわ、さわさわ、と揺れた。
夏の終わりは決定的だ。
秋の気配がそこら中にあった。
わたしは誰かに、何か得体のしれない気配たちに包囲されていた。
辺りを振り返ると、しんと静まり返った家々のそこかしこに、わたしをじっと見守る目に見えない存在たちがいるような気がした。さわさわ、さわさわ、と銀杏が奏でている。
飛鳥の部屋の窓は開いていたが、窓辺に飛鳥はいなかった。
ただ、風が吹くたび、カーテンが微かに揺れていた。
なぜか、浮気をしてきたような気持ちになったが、その馬鹿らしい考えをわたしは微笑みを浮かべることで払拭した。
リンゾウ君と出会った事実が、飛鳥の話をちょっとだけ、おぼろげなものへと変化させてしまった。
現実と非現実とがそこでせめぎ合っていた。
リンゾウ君の存在は現実的なものとして、不意にわたしの前に姿を現した。
それは生々しく、まさに今この瞬間、生きていること、まるでそのもののようでもあった。
正面に銀杏の木がある。
それは確かにわたしの目の前に聳えていた。
そしてわたしの背後に、いつもの月があった。
わたしは飛鳥の部屋の開いた窓に向けて、おやすみ、と告げてから、そこを離れることになる。
歩きかけたが、誰かに見られているような気がして、すぐに振り返った。
けれども、窓辺には誰もいなかった。
月光が、揺れるカーテンを、まるで生き物のように浮かび上がらせていた。その向こう側は暗くぐんと沈み込み、異次元へと通じる入口のように、わたしを静かに待ち伏せていた。 

 
©️Hitonari TSUJI
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