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月族 其の一 Posted on 2019/12/01 辻 仁成 作家 パリ

<strong>月族 其の一</strong>

 
薬子の世界

1、
月がわたしに寄り添う理由がわからない。気がつくといつも月はついてくる。
わたしはずっと月を見上げて生きてきた。遠くで清く澄んだ輝く月を見上げながら、どこか見透かされているような気持ちになり、なぜか守られているような気持ちにもなった。
見つめられていると、帰りたい、と思ってしまう。引き寄せる強い磁力があって、目が離せなくなる。
たしかに月には人格があって、同じ月なのに、いつも違った顔を見せつけてくる。
わたしは、月に恋をしているのかもしれない。間違いなく、恋だと言える。
一時間くらい平気で月を眺め続けることができるからだ。
その淡い光を受け止めながら、愛しています、と思わず声が出てしまうこともある。
でも、なぜ、月は私に寄り添うのだろう。どうしていつもわたしについてくるのか。
月が寄り添う理由がわからなかった。

そういえば、まだこの年齢まで、わたしは一度も男の人のことを好きになったことがない。
なりかけたことは幾度かあるが、それが恋かどうか、はっきりする前に、いつだってその仄かな思いは消えてしまっている。
どうして自分はみんなのように気楽に恋することができないのだろう。
そもそも、世によく聞く、男性との運命的な出会い、などというものは皆無に等しい。
出会いがないのだから別れもなく、はじまりがないのだから終わりもなく、恋人と別れたと言って泣いている友人を、わたしは珍しい動物でも見るように、いつも、眺めてしまう。
なぜ、この子はこれほどまでに絶望しなければならないのだろう。
どうして、これほどまでに他人に依存して生きることができるのか、さっぱり理解できない。
他人なんかを信じるから、このような酷い悲しみを背負うことになるわけで、泣いている友人たちの話を聞きながらも、わたしはどこかで馬鹿馬鹿しい、と呆れている。
しかし、同時に、うらやましいとも思っている。そうだ、うらやましい。
自分ではない他人のことをそれほど本気で好きになることができる、その心の仕組みを知ってみたい。
それはいったいどういうものなの?
どういう感じだろう。どういった感覚? 
それは温かいのか? それとも柔らかい? まるくて、ふわふわしている?
でも、いつも想像するだけ…。
想像しても、経験がないのだから、実感がわくわけもなく…。
もしかしたら、わたしは人間として、何かが欠落しているのかもしれない。
大切な感情というものを最初から失っているのかもしれない。
そのことで、うじうじ、いつも悩んでしまう。

この惑星に生まれ落ちた時から、わたしはいつだって月のことを意識していた。
月と地球の関係について科学的根拠を示す教師たちの話を信じたことは一度とない。
わたしの知る月と科学的な月とのあいだには根本的な違いがある。
それは月と名付けられた理論に過ぎず、わたしが影響を受けているあの月との繋がりはない。
月は月にあらず、人は人にあらず、ここはここにあらず。
そのことを説明しようとも思わないし、説得したいとも思わない。
湖面に映る月も夜空に輝く月も携帯で撮影した月も、わたしにとってはあの月を指す。



真夜中、わたしは洗濯をする。
二十四時間営業のコインランドリーで、深夜、流行りの小説なんかを眺め読みしながら、衣服が乾くのを待つのが最近の日課…。 
そんな遅くに女の子が一人洗濯だなんて、とまーちゃんによく注意される。
まーちゃんとは母のことで、子供の頃からわたしは、母のことをそう呼んできた。
一方、まーちゃんはわたしのことをクスちゃんと呼ぶ。
薬の子と書いて、本名はクスコだが、クスコは言いづらいらしく、勝手に名付けておきながら、クスコちゃんとは呼んでくれない。
歴史上の人物に藤原薬子という平安時代の女官がいたが、関係ない、と母は言った。
なんとなく、響きでつけた、と父が生きていた頃につけ足した。
なんとなく、名付けられたわたしの存在理由を知りたい、と思う日々を生きている。

洗濯をしながら主に読むのは外国の若い作家が書いた恋愛小説が多い。
日本の作家のものは、どうも気恥ずかしくて……。
でも、真剣に読んでいるというわけではなく、なんとなく眺めているという感じに過ぎない。
人が人を好きになる理由を知りたくて、小説を読んでいるに過ぎない。
しかし、読めば読むほど、ますます分からなくなる。
だから、作家が真剣に書いている愛情場面で、わたしはいつも、嘘だぁ、と苦笑してしまう。
自分のことだってちゃんと分からないのに、赤の他人である人のことを、いくら見栄えがよくてカッコいいからといって、そう簡単に、あるいは一目惚れのような瞬時に、好きになれるものかしら。
世界で一番難解なものが自分で、だからか、他人を好きになるまでの余裕などないし、正直自分のことだけで精一杯というのが本音だ。

全自動タイプの洗濯機の上に腰かけて、まるで映画の一場面さながら、何を気取って本なんか読んでいるふりをしているのか、自分に恥ずかしくなることはしょっちゅう。
正面のガラス窓に映った自分の顔は、絵に描いたような間抜け顏で、ため息がこぼれてしまう。
それでも、いつか、恋はしてみたい。
素敵な青年が隣の洗濯機に自分の服を放り込んだ。映画なら、ここから物語がはじまる。
でも、わたしははじまらない。青年はコインを入れるとすぐにそこを立ち去ってしまう。
目が合うこともないし、ましてや声をかけ合うこともない。
目を真っ赤に腫らして、恋人との別れを語る友人のことを思い出した。
きっと、どこかで、うらやましくて仕方がないのである。
自殺でもしそうな勢いで泣きわめく彼女たちを、わたしは心底うらやんでもいる。
同時に、いつもその聞き役になるしかない自分が、ちょっとだけ情けなくもある。
でも、恋が何か、分からないのだから、不憫に感じることもない。
人を好きになるのは、ものすごく体力がいることなのだろう。遠ざかる青年の背中をじっと見つめながら、わたしはため息を漏らした。

そしていつも、コインランドリーを出ると、わたしは真っ先にお月さまを探す。
揺れる木々の向こう側、あるいは草茫々の空き地の上とか、雑居ビルの上、路地の先なんかに、ぽっかり浮かぶ月を見つけると、幸せな気分になる。
わたしはずっとお月様に恋をしてきた。
それで十分…。
洗濯にはうってつけの夜に、何気なく呼ばれたような気持ちになって振り仰ぐと、約束ごとのように夜空に佇む月を発見したりする。
なにものにもかえられない至福のひとときだ。
この人は自分のためだけに輝いてくれているのだ、と錯覚してしまうほどの幸福をそこに発見し、強く感じてしまう。
そのまま、月に付き添われてアパートまで散歩する。
住宅地の十字路のマンホールの上なんかで立ち止まり、振り仰ぐ。
燦然と輝く自動販売機の前でも、振り仰ぐ。
一台も車の停まっていない月極め駐車場の真ん中でも、振り仰いでみる。
__いた。
やっぱりわたしに寄り添っている。
優しくて、大きな人…。
思わず目が合い、わたしははにかんでしまう。
そういえば、どんな時も、どんなに苦しい時にも、月がそばに寄り添っていた。
お父さんが不意に他界したあの日も、月はわたしをただ静かに見下ろしていた。
その光はてらうことなくまっすぐわたしに降り注いでいた。
月の光を浴びている間は、悲しみが浄化された。
青白い月光は皮膚に染み入るように、わたしの肉体に入り込み、その中心にそびえる心の塔を照らすのだ。



すみません、ちょっと、と女の人に声をかけられた時もやはり夜で、空には皓々と輝く月があった。
黄色い大きなまんまる月で、神社の杜の上で柔らかく灯っていた。
高校時代の友達と呑んだ帰りで、わたしはほろ酔いかげんだった。
__あなたのこと、よく見かけるけど、この辺りにお住まいなの?
女の人の口調があまりに親しげなので、
__すぐそこの、神社の裏に。
と正直に答えてしまう。
祭りが終わったばかりで、道や、商店の店先や、歩道や空き地のそこかしこに、夏の終わりを引きずる余韻のような草っぽい匂いが残っていた。
じゃあ、近いわね、とその人は納得するように告げると、ほほえんでみせた。
__わたしの家は神社の真正面の、ほら、大きな銀杏の木が立っている家、ご存じない?
知っています、と素早く返事をしたのには、ちょっとしたわけがある。
その銀杏の木は凛として聳え、色のない住宅地の中にあってひと際周囲の目を引いていたのだから。
でも、気になったのはそれだけではない。
__銀杏がすごく気になって、いつも立ち止まっては見上げています。あの家の方なんですか?
女の人は上品に笑って、
__ええ、あそこの家の者よ。
と言った。あそこの者、という響きが耳に残った。人は人にあらず。
そうだ、その銀杏の木の大きさといったらなかった。
道を挟んだ神社には木々が繁っていたが、その反対、住宅地側には銀杏の大きな木が一本あるだけ。
なのに銀杏は決してその存在感において対峙する神社の杜に負けてはなかった。
そのご婦人が住んでいるという家は、大きなお屋敷で、その敷地は肩の高さくらいの石の塀に囲まれている。
銀杏はその塀の内側、隣接する駐車場の一角にあった。
夜になると、屋敷の二階の窓に、いつも神社の方角を見つめる人影があった。
そうだ、わたしが気になったのは、むしろ銀杏よりも、その人影の方ではなかったか…。
暗くてよくわからないのだが、男性のようだった。
それも若い人…。
昼間はたいてい、窓は閉め切られているが、夜は開け放たれていて、でも、灯りが灯っているのを見たことがなく、中は薄暗い。
その人は杜の上に現れる月を見つめていることが多かった。月を見つめているように見えただけかもしれない。
その視線の先に何があったのか確かめたわけじゃなかったが、わたしは月だと確信していた。
もうずいぶんと前から、わたしはその人の存在を知っていた。
その人が見ていたのは、きっと、わたしが思うあの月だ、と思っていた。
月は月にあらず、人は人にあらず、ここはここにあらず。
銀杏を見ていると、その人が窓際に立った。偶然なのか、そうじゃないのか、わからないけれど、確かなタイミングでその人がいつだってすっと出現するのである。
銀杏と月は、その人の印象と重なっている。
あの屋敷の人なんだ…。
__お急ぎですか?
わたしは、いいえ、とかぶりを振った。どうしてそんなこと聞いてくるのだろう。いいえ、急いではいません、と言いながら、言葉の最期の方があやふやになって、消えた。
__じゃあ、お月さまも綺麗だし、ちょっとそこで何か、ビールでもいかが?
女の人はいきなりそう口にし、角の焼きとり屋を指さした。
歩道に並べた丸椅子に座った若者たちが楽しそうに杯を交わしている。テーブルはビールケースで、建物の外観はわざとペンキなどで汚しをかけてあり、古い映画のポスターなどが壁に貼られていた。
その女の人の清楚な身だしなみや佇まいと若者で賑わう焼き鳥屋とのギャップがおかしく、思わず口元が緩んでしまう。
穏やかな風が二人の間をたゆたっていく。わたしは返事をしたわけでもなく、その人はもちろんわたしの同意を得たわけでもなく、でも、気がつくとすでに三差路を渡っていた。
なぜかその人の背中を見ているのが心地よかった。ここはここにあらず。
わたしたちは昔からの知り合いのように、向かい合って丸椅子に腰かけ、道を挟んだ駐車場の、さらにその向こう側、神社の杜の上にかかるまんまる月を見上げていた。月は月にあらず。
__お月さま、綺麗ね。
女の人はビールをおいしそうに呑んだ後、そう告げた。
まーちゃんより少し年上かもしれない。
でも、つかみどころのない、月に譬えるならばおぼろ月のような女性で、一言で言えば美人だけれど、和紙に筆で描いたような切れ長の目が特徴的であった。人は人にあらず。
その目の、しかしはっきりとした黒目の中心に光の点があり、そのせいでか、見つめられると光る点に引き込まれた。
__あなた、お月さまのこと、どう思います? 
思わず、好きです、と答えてしまう。予期せぬ質問だったけれど、予め用意されていたような問いかけだったからか、戸惑うことなくわたしは返していた。
好きです、という一言の、思いがけない返答が口をついて出たことにもわずかに驚きながら…。
今まで、誰に対しても一度も使ったことのない言葉なのに、と気がつき、おかしくもあった。
なぜ、この人と、かつて一度も入ろうと思ったことのない居酒屋の軒先で、このような会話をしているのか、何もかもが不思議だったが、それは月のせいだ、と思った。
__やっぱり、そうだと思ったの。見つけた時に。
見つけた時に、という一言にどきどきした。見つけられたんだ、と思った。
__小さい頃から、ずっと気になっていました。気がつくと、いつもそばに月がいる。見守られているような気がしたものです。でも、なぜ?
女の人はほほえみ、
__絶対気が合うと思う。
と奇妙なことを、まるで自分に言い聞かせるように、呟いた。
__誰と?
すぐに訊き返したが、女の人は笑うばかりで教えてはくれなかった。
でも、わたしはなんとなく、あの窓辺に立つ人のことではないか、と思った。
その後は、はぐらかされるように、逆にたくさんの質問を浴びせられてしまった。
子供の頃のことや、家族構成、大学のこと、それから恋人がいるかいないか、歩き出す時に最初に出す足は右か左か…。
__恋人はいません。まだ一度も男の人のことを好きになったことがなくて、そのことでよく悩みます。
正直にそう告げると、女の人は口元に柔らかい笑みを浮かべてみせてから、言った。
__大丈夫よ。きっと素敵な恋が、いいえ、出会いが、待っていると思う。
ほんとですか。とわたしは訊き返していた。
ほんとよ、とその人は断言した。
__あなたみたいな人はね、気がついたら、目の前に生涯の相手がいるものよ。でも、見失いやすいのも事実。注意深く人生を眺めておく必要があるわ。
小一時間、まるで面接試験のようにあれこれ質問された後、切れ長の目をいっそう細めてから、折り入ってお願いがあるんだけど、と第一印象を裏切るような声音で改めて切り出された。
要約すると、アルバイトの誘いを持ちかけられたのだった。
それは、彼女の息子さんの話し相手になってもらえないか、というもので、わたしはすぐにぴんときた。
あの人のことだ…。
週に一回、一時間程度の仕事、と言われた。
提示されたバイト代は一般的な時給並みだったが、好奇心にかられて、承諾してしまう。
日々は退屈だったし、生きてることはちょっとだけつまらなかったし、自分以外の人間のことを気にしてみたかったし、ほかにアルバイトをしているわけでもなかったから…。
何より、あの窓辺の人影のことが気になって、計画的に用意されていたようなその申し出を引き受けてしまうのだった。  

自分流×帝京大学

 
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