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コペンハーゲンで出会ったフィン・ユールの椅子、この素晴らしき世界 Posted on 2021/12/06 辻 仁成 作家 パリ

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コペンハーゲンで出会ったフィン・ユールの椅子、この素晴らしき世界

ぼくは椅子が好き過ぎて、パリのアパルトマンは狭いのにいたるところに奇妙な椅子がある。
どうしてこんなに椅子に心惹かれるのであろう。
椅子のあの独特のフォームに魅せられてきた。
さらには、そこに座す人間の仕草や座り方から、その人の気質や歴史が読み取れるからかもしれない。
このおはなしは、ぼくと息子が、まだ仲良く二人旅をしていた時代のデザイン・ストーリーズである・・・。

コペンハーゲンの幻影。

コペンハーゲンの垂れ込めた空は低く、きらめく太陽は大きい。
欧州のどの街とも違うはじめての北欧の気配漂う中、ここの空気はあまりに切ない。
間違いなくぼくはここが好きだと根拠のない確信に支配されながら、ふと横を見やると、相変わらずそこには皮肉屋の息子がいて、パパどこに行くのさ、と訊いてきた。
歩行者信号が青に変わるのを待ちながら、とりあえず、椅子を見に来た、とだけ返した
。椅子? 息子は鼻で笑う。
でも、フィン・ユールの椅子だよ。
なんの椅子だって? ぼくは苦笑した。
息子は、やれやれ、と小さく吐き捨てる。せっかくのバカンスなのにさ。

コペンハーゲンの通りはどこも広い。
北海道の大通りを思い出す。
歩道の横には自転車専用道があり、利用する人が驚くほどに多くて、物凄い速度で突っ込んで来る自転車群を避けながら、100メートルほど対岸に聳える歴史的な建造物を見上げた。翻るデンマークの国旗のなんと凛々しいことか。国旗の手前は光りが射しているというのに、そのすぐ背後には、迫る雨雲があって、奥はぐんと沈み込んでいる。
この黒白に近い明暗、圧倒的なコントラスト、まるでレンブラントが描いた陰影の強い油絵のごとき風景。まさにそれがコペンハーゲンの第一印象であった。



アンデルセン大通りでなんとかタクシーを拾うことができた。フィン・ユール邸に行きたいと説明するも英語の発音が悪いのか、続けてデンマーク語で美術館の名を伝えたが、運転手の表情は強張ったまま。
息子が横で、大丈夫? とクールに訊いてくる。
仕方がないので、携帯に保存していたオードロップゴー美術館の写真を見せ、やっと目的地を理解してもらうことができた。ところが、車は走り出したものの人口100万人のコペンハーゲン市内を抜け、そのまま高速道路へと入ってしまう。
高速に乗るの? 
そんな遠く? と息子。
乗車して30分が過ぎ、タクシーは人気のない森の入り口で止まった。口数の少ない運転手が振り返り、着いたよ、と言った。
地味な塀が鬱蒼と生い茂る森を囲んでいる。
門があったが、次の瞬間にはどのような門だったか思い出せなくなるような、美術館を名乗るにはあまりに粗末な入り口であった。
ここ、違うんじゃないの? と息子が私の背後でボソっと告げた。

コペンハーゲンで出会ったフィン・ユールの椅子、この素晴らしき世界

唯一無二の椅子との出会い。

森の奥へと続く砂利道を覆う木漏れ日が美しい。
しばらく歩くとオードロップゴー美術館という標識を見つけた。どうやら間違えてはいないようだった。
ここからどうやってコペンハーゲンまで戻ればいいのだ? 
到着したばかりだというのに、携帯でゲームをやっている息子の隣でぼくは途方に暮れてしまう。

美術館は広大な森の中にあった。
メイン館ではちょうどモネ展が開催されていたが、ぼくの目当てはフィン・ユールの椅子だったので、素通りした。
美術館の敷地の外れに、欧州の郊外でよく見かけるような、つまり、どこにでもあるような、白い小さな家が一軒ぽつんと木立に囲まれる格好で建っていた。
どうやら、それがフィン・ユール邸であった。



どこにでもあるような、と記したが、門を潜り芝生の庭に立ったとき、その家がまるで大きなカンバスに描かれた巨大な絵画のような迫力でぼくの意識の中へと迫ってきた。
この白い邸宅と向かい合った瞬間に、コペンハーゲンのことを好きだ、と思った以上の予感が働き、ぼくの胸は高鳴った。
けれども、邸宅と呼ぶには地味だし、確かにどこにでもあるような郊外の清楚な家なのだ。
息子を引き連れ、裏手に回ると、小さな入り口があった。
守衛らしき男が立っていたので、もしかして、ここでしょうか? と訊いた。
男が、こんにちは、もしかして、ここです、と微笑みながら告げた。
デンマークで最初の笑顔であった。



コペンハーゲンで出会ったフィン・ユールの椅子、この素晴らしき世界

家具デザイナーとして有名だが、フィン・ユールはもともと建築家としてスタートしている。
1942年にオードロップの雑木林の中に建てられたこの邸宅こそ、フィン・ユール自身が言葉にしている通り「自身の最高傑作」なのである。
彼が作ったのは邸宅だけではない、中に配置された家具や日用品や食器に至るまで、ありとあらゆるものに、彼のデザイナーとしての魂と意思が宿されている。
周辺の雑木林から漏れる光りを上手に取り込んだ、計算されつくした光りの配置にまず目が奪われた。
庭園と一体で建てられた邸宅の広い窓から見える緑と森の調和にフィン・ユールの眼差しが宿っている。
作家であるぼくが彼の書斎にどれほどのジェラシーを抱いたのか、想像していただきたい。

ぼくの作業場は煮物などがコトコト湯気が立ち続ける所帯じみたキッチンの横のサラマンジェ(食堂)を兼ねる小部屋だ。
そこにオーヴァル(楕円)のテーブルがあり、パソコンの周辺には辞書や本やスピーカーや携帯やワイングラスなどが氾濫している。息子と二人暮らしなので、片付くことはない。
フィン・ユールが死ぬまでそこで暮らし、作業をしたという彼の仕事場、実際には2か所ほどあったが、どちらも広々としており、光りに溢れ、我が家の仕事場とは比較にならず、ため息ばかりがこぼれて仕方がなかった。

ついに、フィン・ユールの椅子と出会う。

玄関部にあたるサンテラスのような庭室(ガーデンルーム)を挟み、邸宅は左右に緩やかな傾斜を持つ2つのウイングで構成されている。
入り口は狭く、すぐ左手に作業場が、想像的な作業というより現実的な仕事をするためのオフィス的な部屋が付帯していた。そこに荷物を置くように、と守衛に言われ、ぼくと息子はリュックを置いた。
家はL字型で、角地に玄関テラスがあり、右ウイングへは階段を4段上がらなければならない。
上ってすぐのところに小さなゲストルーム。その隣が実にシンプルなキッチン。狭い廊下に食器棚があり、そこに並べられたグラスや皿までもが彼の作品である。
とくに私の目を引いたのは、50年代、ビングオーグレンダール(Bing&Grondahl)のためにデザインしたというティーセットだ。
把手のラインが面白い。動物というより悪魔の耳のような。ポットの注ぎ口にも滴のようなでっぱりがある。
しかし、それでいて奇抜ではない、むしろ控えめな存在感。
シンプルだが、作り手の遊び心が実によく反映されたデザインのティーポットとカップだった。

コペンハーゲンで出会ったフィン・ユールの椅子、この素晴らしき世界

キッチンはとくに今日的な目新しさは感じないが、逆に1942年に出現したこのシンクを当時の人々はどのように思ったのだろう、と考えずにはおれない無駄のない静謐な台所である。
古さも新しさも感じないこの人の独創力に再び静かな興奮が沸き起こる。
細部にこだわったフィン・ユールだからこそのカトラリーや、テキスタイル、食器のデザインに至るありとあらゆる細部に彼一流のこだわりがあった。
器だけではなく器の中身も器を収める箱もすべて手作りにしないと気がすまないのである。
その見事な統一感こそが、この邸宅を一個の芸術として高めている。

有名な建築家が建てたという場所にしばしば足を運ぶが、ほとんどの建築物の中身は外見に反して統一感がない。
建築家の意思は建築物が人手に渡ったとたんになおざりにされるか、もしくは違う解釈によって作り替えられてしまう。
フィン・ユール邸も彼の死後、家具の配置などでいろいろとあったようだが、それでも、彼の意思は美術館のチームによって存続され続けている。
フィン・ユール邸を訪れるファンの喜びは、いまだ色褪せぬ当時の気配の維持にこそ尽きる。
建築家がイメージした当時の空気をこの現代にできるだけ忠実に存続させ続けているのだから、そういう意味でオードロップゴー美術館に隣接するこの邸宅は実に興味深い時間移動装置といえるだろう。



玄関へと戻ってみよう。
中間棟のガーデンルームには応接間的な役割があり、来訪者はまずここに座り、主の到着を待ったに違いない。
そこはL字の内側の角部にあたる。
L字の内側が庭園になっている。
L字を囲む格好で雑木林が包囲している。
建物と庭園の敷地は長方形ということになる。L字の内側はすべて広い窓だ。
どこからでも庭園を見渡すことができる。来訪者はここのソファ椅子に腰を下ろし、まず旅の疲れを癒す。
眼前に広がる芝生の緑と森の上に広がる空の青は心に優しい配色である。

コペンハーゲンで出会ったフィン・ユールの椅子、この素晴らしき世界

ライトウイングよりも中間棟から左側のサロンへと通じる空域はさらに明るい。
淡いベージュ色の床材が柔らかくL字の突端の仕事場兼サロンまで伸び、垂直に聳える窓壁から差し込む光りが永遠の夕日や永劫の朝日のようにその床を明るく染め上げている。
室内に降り注ぐ、ありとあらゆる光りの角度が実によく計算され尽くしており、ぼくと息子はそこに半日はいたのだけれど、刻一刻と移り行く光りのショーに飽きることはなかった。

時の移ろいの中で振り返ると、そこに中庭があり、振り返ると壁にかかった絵画と目が合い、それは画家のヴィルヘルム・ロンストロームが描いたフィン・ユールの妻、ハンネの肖像画だが、目に鮮やかな辛子色のセーターを着た女の姿に思わず心が奪われる。
なんとも贅沢な時間じゃないか。振り返るとフィン・ユールの仕事机があって、文房具や日用品の上で日差しが戯れていた。光りの位置まで計算されたこれら家具の絶妙な配置こそ、フィン・ユールの洗練された手練といえる。
きわめて私的な美術館を散策しているような気分を味わうことができた。
はるばる、ここまでやって来た甲斐があったというものだ。
 
L字の内側に張り巡らされた大きなガラス戸は当時、フィン・ユールが生きていた頃、特に夏の間は開け放たれていたのに違いない。
来訪者は気が向けばそのまま庭園に出ることが可能で、建物と庭との一体感、そして建築と自然の素晴らしい調和を堪能したことであろう。
冬は窓が閉ざされ、暖炉で背中を暖めながら、雪景色を眺めたはず。庭園の芝生に降り積もった秋の落ち葉を想像し、雪を想像し、初夏の爽やかな青々と生い茂る芝の輝きを想像しないわけにはいかない。
フィン・ユールはお気に入りの椅子を庭に持ち出し、木陰で昼寝をしたことだろう。私の空想は途切れることがない。



コペンハーゲンで出会ったフィン・ユールの椅子、この素晴らしき世界

左ウイングの中ほどに2つの見事な椅子が並べられてあった。
「パパ、この家にある椅子、どれも変だね」
ふいに息子が言った。私は笑う。

詩人がデザインする家具。

フィン・ユールの妻の肖像画の下に、「ポエト」と名付けられた有名な二人掛けの愛らしい椅子が置かれてあった。
その真正面に「族長の椅子、ティーフティンチェア」という革張りのやや無骨な肘掛け椅子があった。
シートと肘掛け部分と背もたれとがつながっておらず独立している。フィン・ユールはこれを庭に持ち出し、足を肘掛けに乗せ、ふんぞり返っていた。
座っている者を酋長や族長にさせるからであろうか。
個人的な見解だが、私はヤコブセンの椅子よりもフィン・ユールの椅子の方が好きだ。
たぶん、ヤコブセンの椅子より、もう少しだけプリミティブで、ふざけていて、遊び心があって、どこにあるのか見逃しそうな感じや、奇抜なんだけどそれをちょっと隠そうとしてるお茶目な自意識とか、なのにすぐに見破られてしまう存在感、何より人間的で、どうしても座りたいと思わせる椅子なのであった。

「パパ、疲れた。この椅子に座りたい」
長旅に疲れた息子が言った。
「それはできないよ。ここはミュージアムだから」
「でも、こんなにたくさん変な椅子があるんだからさ、1つくらい」
「変な椅子だから座れないんだよ」
私は息子の肩を抱きしめた。
 
 

Photography by Hitonari Tsuji



〇FINN JUHL フィン・ユール(1912-1989)
コペンハーゲン生まれ。デンマークの建築家、家具デザイナー。アルネ・ヤコブセン、ハンス・J・ウェグナーと並び、近代家具デザインにおける代表的人物といわれる。
1934年、デンマーク王立芸術アカデミーを卒業し、1935年、建築家ヴィヘルム・ラオリッツェン事務所で勤務をはじめる。
1940年、代表作の一つとなる「ペリカンチェア」を発表。1942年、フィンユール自身が「総合芸術作品」と絶賛する自宅「フィンユールハウス」(2008年より一般公開)を建設。
別名「家具の彫刻家」と呼ばれたフィン・ユールのデザインの魅力は、美しい曲線と完成美にある。代表作はチェア「ペリカンチェア」、「No.45」、「チーフテンチェア(Chieftain Chair)」など。
デザイナーとしてスタートした当時、デンマークではフィンユールの斬新なデザインが酷評されていた。フィン・ユールは、アメリカで認められたことで国際的な名声を 手に入れ、その後デンマークでも称賛される。



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Posted by 辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。