PANORAMA STORIES
「モンサンミッシェルの奇跡」 Posted on 2019/09/20 辻 仁成 作家 パリ
日本人観光客は確実に減った。アジア人だらけのパリで、ここ数年、日本人の姿が消えてしまったのでぼくは寂しかった。ところがモンサンミッシェルに行ったら、ほとんどが日本人だった。ここにいたんだ、とぼくは思わずつぶやいてしまった。
何が、日本の人たちの心を掴むのだろう。そういえば、ぼくも毎年、モンサンミッシェルに行く。その魅力とはなんだろう。
モンサンミッシェルは一時間ごとに顔を変える。しかも季節ごとに姿を変える。しかも毎年違った表情でぼくを出迎えてくれる。そのフォルムの美しさといったら、表現のしようがないほどだ。一度はモンサンミッシェルに行ってみるといい。何度も通ったぼくが言うのだから、それは間違いない事実である。モンサンミッシェルの奇跡。
モンサンミッシェルに行くと、なぜか詩人になってしまうのだ。目の前にそびえるモンサンミッシェルを見上げながら、なぜだろう、ぼくは詩人になってしまうのである。
モンサンミッシェルはいつも違った貌(かお)でぼくを出迎えてくれる。
ある時は、朗らかで、柔らかいまなざしと微かな微笑みを湛えて、
ありとあらゆるものを赦し、そこにきつ然と佇んでいる。
でもある時は近づき難く、見抜かれそうで、ぼくは幾度と引き返したくなる。
目を閉じ、その神々しい姿から目を背けて。
またある時は、蜃気楼のよう、追いかけても追いかけても追いつけない逃げ水。
ぼくは遠くからただじっとその尊い姿を見つめることしかできない。
なのに、ある時はため息ばかりついて、とっても詩的で、幻想そのもの。
ぼくは思わずうっとりして、時を失い、人生の労苦を忘却してしまう。
自分がどこからやって来てどこへ行くのか分からなくなる時、
なぜかいつもここにいる。
うつろう時や、悲しい記憶や、幸福の欠片とか、見えそうで見えない風とか、
あの日の淡いひかりの残滓なんかを、ちょっと慈しんだりしながら。
ある時、ぼくは告白するためにここに立つ。
もう一度、生き直してみたい、と。
渡仏して17年、何度も、ぼくはモンサンミッシェルを訪れた。そして、モンサンミッシェルを前にして、ぼくはなぜか記憶をたどるのだった。世界は風化していく。ぼくはいつか滅びる。でも、ぼくが消えた後も、この建造物は残り続けるのであろう。
モンサンミッシェルの頂上に登ると、そこには驚くべきことに空中庭園が存在していた。ぼくはその回廊の中ほどで、正気で、この詩を紡いだのである。
Posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。