PANORAMA STORIES

息子と歩いたモスクワ・赤の広場の衝撃 Posted on 2019/09/24 辻 仁成 作家 パリ

 
1「ぼくは赤の広場に行きたい」

15歳の息子がまだ小学生だった時(12歳になる直前だったかな)、彼は不意に「モスクワに行ってみたい」と言い出した。けれども、モスクワというところは欧州のほかの国と違って、思い立ってチケットさえ手に入ればすっと行ける国ではない。まず、ビザが必要になる。

パリにあるロシア大使館に赴き、旅行の目的などを伝えビザを申請するのである。とっても優しい人たちだったのでその作業はスムーズだった。

「パパ、赤の広場ってどんなところ?」
当時、幼かった我が息子に質問され、私は返答に困った。
「世界遺産なんでしょ? 知らないの?」
言われてみたら、よく知らない。昔、愛読したソルジェニツインとか、トルストイ、ドストエフスキー、プーシキンくらいかな、知ってる人物は。

そういえば、私が息子と同世代の頃、ロシアはまだ社会主義国でソヴィエト社会主義共和国連邦という国名であった。一度だけ、20代の頃にモスクワの空港でトランジットをした経験がある。
今では蔓延するテロのせいで普通になったが、当時マシンガンを肩に下げた兵士が空港内にいたのが印象的であった。それ以上のことを知らない。
12歳の息子が口にした世界遺産の赤の広場にしても、名前は何度も訊いたことがあるがどんな場所か詳しくはわからなかった。

「じゃあ、行ってみようか?」
私が言うと旅好きの息子は、行こう、行かなきゃわからないよ、と笑顔で言った。

さて、またしても父子の旅がはじまった。
 

息子と歩いたモスクワ・赤の広場の衝撃



 
2「いよいよモスクワ到着」

モスクワの空港はシェレメーチエヴォ国際空港という名前だった。
他にも大きな空港が2つばかりある。
1千万超の都市モスクワの国際空港にしてはかなり地味な冷戦時代の遺跡のごとき空港だった。

フランスとの時差は3時間。気温は10月だったがマイナス1度。

空港からモスクワ市内へつながる道は建築途中の建造物だらけで、経済が活性化している印象を受けた。独特のキリル文字を使用したロシア語の看板、よその国ではよく見かける英語が見当たらないことがまず新鮮であった。
 

息子と歩いたモスクワ・赤の広場の衝撃

 
MOCKBAという表記を市内各所で見かけた。どうやら「モスクワ」を意味するらしい。

それにしても面白いくらいに英語が通じない。欧州で培ってきた旅行術が一切使えないのである。なんだかウキウキしてきた。私は思い通りにならない旅を好む傾向がある。行き当たりばったりの人生や旅が大好きなのだ。

赤の広場のすぐ近くにある歴史的ホテル「メトロポール」にチェックイン。
ここのドアマンも英語を喋ることができない。でも、通じないということで逆に通じるということもある。
同じレベルの語学力だからこそ、笑顔が有効だったりするのだ。

私たち父子はさっそく、世界遺産でもある赤の広場へ出かけることになる。
 

息子と歩いたモスクワ・赤の広場の衝撃

 
3「赤の広場の中心に立つ」

面積が7万㎡もある巨大な広場であった。

南西側に大統領官邸を含むクレムリンの城壁が走り、その中程にはレーニンの遺体が保存処理(エンバーミング)された廟があり、南東には有名な玉ねぎ頭のカラフルな教会、聖ワシリー大聖堂が鎮座し、北東側に巨大デパート、グム百貨店が広がっていた。

私が子供の頃、赤の広場とクレムリンは西側にとっては脅威の象徴であり、世界のタブーのような場所でしかなかった。今、そこに12歳の息子と立っていることが不思議でならない。

「パパ、ボクはここを舞台にしたゲームをいつか作ってみたいな」
 

息子と歩いたモスクワ・赤の広場の衝撃

 
それにしても、世界を代表する大都市にはこういう巨大な広場が必ずある。その中でも赤の広場はそのネーミングからして、人を引き付けるものがある。怖さ反面、興味深さ反面、見たさ反面なのである。

死ぬまでに一度は見ておいて損のない観光地であろう。歴史的な遺跡に包囲された印象であった。

息子が赤の広場を舞台に作るゲームがすでに私の頭の中で動き出していた。
当然、ロシア、ソヴィエトの歴史がそこに加わることになる。雷帝といわれたイヴァン4世やスターリン、レーニン、人類初の宇宙飛行士ガガーリンなどのキャラクターが登場するかもしれない。

おっと、もちろん、柔道の達人、プーチン大統領を忘れてはならない。
 



息子と歩いたモスクワ・赤の広場の衝撃

 
陽が暮れ始めると、グム百貨店がライトアップされた。実に美しく、うっとりした眺望であった。
1960年代に戻ってしまったような不思議な錯覚が私の大脳を揺さぶってくる。
歴史大河小説の中にいま自分たちはいる。どうしてソ連邦は崩壊したのだろう、と思った。ゴルバチョフはなぜ殺されることなくペレストロイカを実行できたのであろう。

冷えてきたのでグム百貨店の中に入った。その時の気温はマイナス4度。
防寒してきたつもりだが、30分以上は外にいることができない。
ところが、百貨店の中には、そこら中にアイスクリーム屋さんがあり、市民が群がっていた。

私は息子の反対を押し切ってアイスクリームを1つ買うことになる。
チョコチップの入ったバニラアイス、約70円であった。甘くなくて実に美味い。アイスを齧る度、寒さが遠のく気がしたのは、きっと私の気のせいであろう。
 

息子と歩いたモスクワ・赤の広場の衝撃

息子と歩いたモスクワ・赤の広場の衝撃

 
4「突き刺す寒さこそモスクワの醍醐味なのだ」

調冷えたし、お腹がすいたので、言葉が通じるかわからなかったが、近くの伝統的なロシアレストランに飛び込んだ。
ピロシキ、ボルシチ、ビーフストロガノフ。知ってる料理の名前をずらりと並べてみせ、最後にちょっと微笑みを手向けると、通じた! 覚えたてのスパシーバ(ありがとう)を連発した。
怖い顔をしていた店員さんたちの頬が一斉に緩むのが愉快であった。これが実に美味かった。家庭的で、大陸的で、とろける。美味い!!!そして、従業員たちの笑顔。最後は減府まで出て消え挨拶をしあうことになった。

どこであろうとすぐに友達を作ることができる。それが私の得技でもある。

「パパ、パパは旅の天才だね。きっと、どこでも生きていけるよ」
と息子が偉そうに言った。 
「そうだね、世界はパパには狭すぎるんだよ」
「やれやれ」と息子は言った。

息子と歩いたモスクワ・赤の広場の衝撃

息子と歩いたモスクワ・赤の広場の衝撃

息子と歩いたモスクワ・赤の広場の衝撃

 

Photography by Hitonari Tsuji

 
 



Posted by 辻 仁成

辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家。パリ在住。1989年に「ピアニシモ」ですばる文学賞を受賞、1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。ミュージシャン、映画監督、演出家など文学以外の分野にも幅広く活動。Design Stories主宰。