JINSEI STORIES

滞仏日記「デザインに神の意志は宿っているのか?」 Posted on 2019/02/01 辻 仁成 作家 パリ

 
某月某日、パリと東京の間には10000万キロの距離がある。僕を乗せた飛行機は高度10000メートルを飛行中だ。渡仏から17年、僕は年に3、4回日本とフランスの間を行き来してきた。パリから東京へ向かう場合、10時間とちょっと。その逆だと気流の関係でもう1時間ほど長くなる。だいたいの人は機内で音楽を聴くか映画を観ているが、僕は何もしないで10時間ずっと考えごとをしている。小説の構想を練ることもあるけど、たいていは窓の外を眺めながら、どうでもいいようなことについて思いを巡らせている。3年程前のことになるが、僕はいつものようにぼんやりと窓外を眺めていた。ところが次の瞬間、僕の頭の中で真理の閃きが起きた。僕はただ自分の席に座っていただけだったが、それまで持っていた価値観とは異なるものをそこに発見することになる。まさしくその瞬間、僕は自分がデザインの中に存在していることに気が付いてしまった。横の人が目の前のモニター画面をのぞき込んで映画を見ていた。しかも食事をしながら。彼が掴んだフォークもナイフも皿もお手拭きもすべてが誰かによってデザインされたものだった。彼が座っている椅子も見ているモニターも映画そのものも天井のフレームに至るまで、キャビンアテンダントさんの制服もピン止めも彼女らが押すワゴンまで、何もかもがデザイナーによって作り上げられた製品だった。きっとこの飛行機のビス一つに至るまで、ありとあらゆることにデザイナーの意志が介在していた。誰かに呼ばれたような気がしたので窓外を振り返えると、楕円の小さな窓の向こう側には宇宙が広がっていた。遠くに瞬く星が見えた。丸い月がこの飛行機に寄り添っていた。まるで意思を持った人の顔のようではないか。そこは高度10000メートルの空の上。窓の外は真っ暗で人間のデザインが存在しない自然界である。神によるデザインだけが空間を構成していた。人間は人間がデザインした世界の中で生きている。その外側には人間には手の届かない神のデザインが広がっていた。パイロットは計器で囲まれたコックピットの中にいるので同じことに気が付いているかもしれない。窓の外の宇宙とコックピット内のデザインされたパネルたちとの間に人間と神とパイロットが共存していた。
「気流が乱れましても安全には一切影響がありませんのでご安心ください」
と機長がアナウンスする。僕は「それは嘘だ」と思って微笑んでいる。大事なことは安全であるかないか、ではなく、僕たちは「どこから来て、どこへ向かうのか」じゃないだろうか。いったい人類は何をデザインしようとしているのであろう。

最初のバンドは主に歌舞伎町界隈で活動していた。歌舞伎町周辺の派手なネオンや看板などに代表される新宿のデザインは後の芸術家らによって日本を表す一つの意匠として先鋭的に語られ、荒木さんのアートなどを通して、世界的に広がった。今やあのごちゃごちゃを目指す外国人までもがいる。僕の友人のフランス人たちは毎回必ずゴールデン街を訪れ、朝まで大騒ぎしている。あの演劇的な前衛的な寄り添う居酒屋街こそ東京らしいと考えられている。バンド活動していた十代の僕らからすると、乱闘に明け暮れる街だくらいにしか思ったことがなかった。パリは綺麗でかっこいいですよね、といろいろな人に言われるけど、これも現実はちょっと違う。パリに関して言えば、みんなが知らない驚くほどに危険で薄汚く近づきがたい場所の方が有名な観光地よりもずっとパリっぽい。パリというデザインイメージは実に見事に作り上げられた信号だ。モンマルトルやマレ地区、シャンゼリゼなど観光客が求めるパリで暮らしたことがないからか、パリというキーワードだけでは同じイメージを共有することが難しい。僕が知るパリとはどちらかと言えばシャルリーエブドが襲撃した時の出版社などがごちゃごちゃと連なっている地区、不法移民たちも暮らす住宅地の殺伐とした通りとか灰色の壁、特に何も自慢するところがない、でも不意にテロとかが起きるような、あの変哲のないエリアを指す。そういう表に出てこない地区の建築物は結構傾いていて古く趣もない。そういうパリの方がリアルだなと思う。人の意向が汲みこまれた人為的デザインはちょっと苦手かもしれない。誰かがデザインしたものを後の人たちが少しずつ勝手に壊して、意味のない落書きだとかガードレールの下に貼られたポスターだとかを施して、あまざらしのそれらはやがてボロボロに剥がれ、そこに差す光りとかなんかに、僕はただ儚い都市の美を感じる。

デザインって暴力なんだよ、どうしてみんな気付いてくれないんだろう。東京なんかだと、いきなり原色の赤とか緑とか、あるいはもっと奇抜な線とか平面の暴力が溢れていて、たまにパステルカラーの青と緑とかが周囲とのバランスを無視して塗られていたりして、まじか、と叫んでしまう。こんな主張だらけの色を平気で作っては周辺との調和を一切気にせずデザインしてしまっている東京の無軌道なデザイン力ってある意味凄いのかも。新宿三丁目の飲み屋街とか、帝国ホテルの裏の誰もいない商店街の暗い坂道とか、神保町のちょっと裏の方のトタンが触れ合ってる路地とか、忘れ去られたデザイン感が忘れ去られながらもきちんと自己主張しており、じりじりと胸に迫ってくる。こういうものは作ろうと思って作れないね。時間と偶然とそこで生きる人々の力が微妙にこれらの条件を作り上げてしまうのだろう。

それにしてもこのデザインの暴力から逃げ出したいと思うことが多い。デザインは暴力になりうるのだと気がついた。だから僕は不意に裸になりたくなるのかな? ヌーディストビーチには行ったことないけど、多分、僕は自然に戻って、その浜辺に立つことは恥ずかしくないと思う。垂れたお腹も胸も尻も、人間の向かうべき思想的ゴールを見つけることが出来そうだ。ホーキング博士じゃないんだから、いくら考えたって真理に辿り着くことなんかできないのも分かってる。でも、この宇宙のデザインの謎を明かすことは出来ないにしても、僕らにとってデザインがとっても大事だということにはちょっと気が付いてしまった。そしてそのデザインの良しあしだけを論じ合うのはもうやめよう。僕はそれこそが不毛だと思う。論じ合う必要はないよ。素晴らしいデザインというものはこういうことさえ考える間を人に与えていない。さて、そろそろ僕は東京に着くようだ。この飛行機は滑走路に着陸し、ターミナルへと移動する。人間が作ったデザインに沿って。着陸した飛行機の窓から見える地上の世界はどうやら全て人間のデザインによるもののようだ。自然を超える人間のデザインなんかに出会ったことはない。風を着てみたい。
 

滞仏日記「デザインに神の意志は宿っているのか?」