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滞仏日記「僕がノートルダム大聖堂で祈ったこと」 Posted on 2019/04/17 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ノートルダム大聖堂が大火災を起こし、鐘楼が崩れ落ちた、という一報が朝一番でパリの友人から届けられた。僕は朝、母親と滞在先の福岡のホテルで朝食を取りながらも、心はパリのシテ島に屹立し続けたあの美しい寺院へと。息子から、パリは悲しみに包まれているよ、とメールが入った。時間が経つにつれて、少しずつ何が起こったのかを僕は理解していくことになるのだが、あれだけ見慣れた大聖堂の尖塔が火災で崩れ落ちたという事実を心が認識するまでには至らなかった。それはまるで親しい人の死のような悲しみを連れてきて、僕の心はいつまでも現実を受け止めることが出来ずにいた。

ノートルダム大聖堂はパリの中心的なシンボルで、実際、パリから全国へ向かっての道のりを測る起点となっている。正面広場には「POINT ZERO」(ゼロ地点)と彫られた道路元標が埋め込まれている。フランス全土の高速道路の分離帯に並んだプレートに記された数字はパリからの距離(またはパリへの距離)を示し、そのゼロ地点がノートルダム大聖堂ということになる。パリで暮らしだした最初の年、僕はここで祈りを捧げた。息子が生まれた年にも、そして東北大震災の年にも寺院の中で手を合わせた。僕には信仰がないけれど、パリで暮らす者にとってここは心と精神の拠り所でもあった。今はそれをさらに強く実感することが出来る。シングルファザーになった直後も僕はここを訪れている。その時は息子が一緒だった。10才だった彼は驚くべき行動に出た。教会の前で跪き、祈りを捧げたのだ。息子はカトリックの学校に通っていた。彼もまたクリスチャンではないけれど、そういう教育を長年受けてきたので、多分、とった行動だったと思う。二人で生きることになった年だったので、彼が合わせた手の中に隠された思いをなんとなくだが想像することが出来た。彼も僕も無宗教だし、カトリックの信徒ではないので、祈りの意味は少し違っているけれど、パリの、いや、フランスのシンボルとして、いつも見上げていた教会の火災は他人事ではなかった。悲しいね、ともう一言、届いた。でも、息子は50年後、再建されたノートルダム大聖堂を再び見ることが出来るに違いない、と思った。その時、僕はもうこの世界にはいないけれど、彼がパリで生き続けているならば、彼の家族と共に、空に向かって聳える鐘楼を再び見る日が来る。その時、彼の記憶の中に、今日の僕がいるかもしれない。それをもしかすると希望と呼んでもいいのじゃないか、と思った。

僕は今年の一月にノートルダム大聖堂を撮影している。YouTubeの動画の撮影のために右岸地区を回った。最後に訪れたのが深夜のノートルダム大聖堂だった。まだ、教会の前に巨大なツリーが残されており、青い電飾によって厳かに浮かび上がっていた。教会の袂のファサードにはギタリストがしゃがみ込んで、幻想的なメロディを奏でていた。僕はそこで撮影後に祈った。僕はこういう宗教の場所で、自分のことをお願いすることはしない。だいたいが、感謝を述べる。手を合わせるということはお寺でも神社でも教会でも信仰のない僕にとっては生きていることへの感謝でしかなかった。その時の映像がYouTubeに残されていることを、もう一度感謝したい。僕が今生見た最後のノートルダム大聖堂の美しい佇まいとなった。シテ島には現在は入れないので、フランスの人々は左岸や右岸のケ(川岸)から、または隣のサン・ルイ島に集結して祈りを捧げている。その祈りはきっと世界中に届いている。再建へ向かう人々の心の中に、希望がまだあることを救いと呼ぶのであろう。

滞仏日記「僕がノートルダム大聖堂で祈ったこと」