THE INTERVIEWS

ザ・インタビュー 建築家 田根 剛「記憶をつなぐエストニア国立博物館」 Posted on 2017/02/01 辻 仁成 作家 パリ

若干26歳の若者が、バルト三国、エストニア国立博物館の建築コンペで優勝をした。
その博物館が2016年10月、ついに完成したのである。
私は、この新進気鋭の建築家、田根 剛氏に興味を持ち、インタビューを申し込んだ。

どうやって、この男は26歳という若さで世界的な巨大博物館の国際コンペで優勝できたのか? 
そしてそれを作り上げてしまったのか? 

この若き建築家を直撃します。ザ・インタビュー。
 

ザ・インタビュー  建築家  田根 剛「記憶をつなぐエストニア国立博物館」

Photography by Takeshi Miyamoto


 今日のインタビューすごく楽しみにしてました。田根さんの年齢を聞いて、ちょっとまだ若いから、正直言ってインタビューするのどうかな、、とか思っていたんですよ。でも、その若さでエストニア国立博物館の国際コンペで優勝するって、どんな人なんだろうって興味もあった。半信半疑ながら、今日はここにいます。

田根 そうなんですか。ありがとうございます(笑)。

 失礼なこと、聞きにくいことを毎回聞いちゃうんですけど(笑)、本音で迫ります。お許しください。
まずは、エストニア国立博物館について聞いていきたいんですけど、3人の建築家の中で原案は誰が出してるの?

田根 ぶっちゃければ、僕です(笑)。まあ、3人それぞれの回答が出てくると思いますけど。2005年の当時、大学を出てロンドンで僕はスタッフとして若手の設計事務所で働いていました。パートナーの2人とは友人として出会ったんです。イタリア人のダン・ドレルは7歳くらい上。僕が25歳の時で彼は32とか33歳でした。

 それからわずか1年でエストニア国立博物館のコンペで優勝?

田根 はい。本当はあってはならないようなことなんですけど(笑)。

 出会ったきっかけは? DGTが出来たきっかけは? (2016年12月末、DGTは解散。田根氏は独立し、パリにATELIER TSUYOSHI TANE ARCHITECTSを設立。)

田根 スペイン人の友人が遊びに来た時にレバノン人のリナ・ゴットメと仲良しで、一緒に遊びまわっていて仲良くなったんです。友だちとして仲良くなって、コンペでもやろうか? という話になりました。
 

ザ・インタビュー  建築家  田根 剛「記憶をつなぐエストニア国立博物館」

Photography by Takeshi Miyamoto


 どうして2人で? 1人でやればいいじゃん?(笑)どっちから言い出したんですか?

田根 レバノン人のリナからやらないかと声をかけられましたね。ちょうどロンドンのデザインミュージアムへ展覧会を観にいって、その帰りに歩きながらあれこれ話をしていたらコンペでもやろうということに。それで双方でコンペを探して、その中で一番大きかったコンペがエストニア国立博物館のもので、でもあまりにも大きかったので、ちょっと2人では無理かな? ということになりました。
提出物があって、期限もあるんで、普通に日中は事務所で働きながらだとちょっときついね、ということになってもう1人探しました。たまたま同僚にいい人がいるよって。それがイタリア人のダン・ドレルです。

 この3人はそうやって出会った。建築って孤独な作業だというイメージがある。でも、スポーツのように3人でやったのが面白い。もう少し説明がほしいんですけど、3人で分担するってことですか?

田根 コンペを出した当時は、もうただやるしかなかった。役割なんて話し合う間もなく、提出に向けて一気に駆け巡ったといった感じです。 この規模のコンペは基本、何度も選考を行うんですが、すごいことにエストニアは一発で決めちゃったという。公募で1回で1等を決めてしまうってなかなか無いんです。こういう大きなミュージアムだとだいたい有名な建築家が呼ばれて、10人の中で誰が勝っても有名な建築家になるっていうのが通例です。
ヨーロッパだと1万平方キロメートル以上の施設はコンペをしなくてはいけないという決まりがあります。それでエストニアは、招待か公募かどちらでもいいということで、公募で国際コンペを開いて一番いいアイデアを選んだということになります。

 エストニアの審査員っていうのはどんな方たち?

田根 文化大臣が審査員長でしたね。建築家が3、4名。そこに歴史家がいたり。

 その建築家って人たちは自分の建築を出さないで、審査員側にまわったということですか?

田根 そうなんです。それもかなりの大御所の方が。

 世界的にそうなんですか?

田根 いや、そんなこともないです。普通は自国に博物館を作るというと、自分がやりたいってなると思います。
最初の国家プロジェクトだったんで。

 最初の? それもすごい!

田根 (笑)。
 

ザ・インタビュー  建築家  田根 剛「記憶をつなぐエストニア国立博物館」

Estonian National Museum “Memory Field”
courtesy of DGT. / Photo by Tiit Shild


 旧軍用滑走路を利用されてますね? すごいアイデアだ。

田根 与えられた敷地をグーグル(衛星写真)で見ていろいろ考えるんですけど、途中で、その横にある白い1本の消しゴムで消されたみたいな線が気になったんです。調べたら滑走路、旧軍用滑走路で、これは使わない手はないだろう、と。

 そこを使わない手はないだろうという発想が面白い。もう少し具体的に教えてください。

田根 自分は「場所の記憶」とか言ってますけど、ようやく言語として表現できている感じです。その時はもう思いつきです。大地を切り裂いたような、見たこともない空白があった。「軍事的暴力性」っていうものと、「ナショナルミュージアム」っていう民族の歴史を伝えて行く場所がつながるということには意味があるんではないか、と。
直感的なひらめきでした。エストニアのひらめきをきっかけに、じゃあ自分でどうやって勝負するか、ということを考えました。

 ということは、エストニアでのひらめきが、それ以降の、つまり、田根さんの手法というのか、過去の歴史と今をつなぐ、というコンセプトにつながりますか?

田根 そうですね。そこにたどり着くまで2〜4年かかりましたね。
最初はデザインとか、新しい建築に憧れもあったのですが、知らぬ間にこっちに引っ張られてきました。

 エストニアの国立博物館、いきなりそこに全てがあるんですね。それがすごいよね。そんなラッキーな人いないと思うよ。そんな25や26歳の子たちが、国家プロジェクト勝ち取って、しかもそれをいきなり全部任されて。思うに、エストニアって国もすごいよね。

田根 そうですね。エストニアがすごいですよ。審査員が決めても、国として、政治的なものもあるはずですから。

 ねえ、サッカーしてた頃もそんな低い声でしゃべってたの? その声で怒るの? (田根さんは高校生の頃、Jリーガーを目指していた)

田根 (笑)どうなんですかね。

 エストニアから始まって、多分今後のプロジェクトもそっちの方向へ行ってるんじゃないかと思うんですけど、そこに行くまでの経緯を思い出してもらえますか? そこを掘り下げて話してもらいたいな。

田根 エストニアをきっかけに、建築というものと場所がそもそも持っていた記憶というものを結びつけることができるんじゃないかって思いました。ニューヨークで始まった20世紀型の都市開発ていうのはどんどんそれまでの歴史や場所というものを1回更地に置き換えて、新たにその場所にじゃあどういうお金をつぎ込んで建物を造るかっていうのが、ある時代を作る上では必要だったかもしれないんです。近代というシステムで空間を垂直に量産していくっていう。ヨーロッパから始まったモダニズムっていうのがやっぱり「時代、未来を作っていく」という、過去を切り捨てて未来を作ろうっていう一方向の思想の元にあります。当初は意味があったんですけど、世界的に建築的な思想とは別に、経済的なシステムによってどんどん量産されスクラップ&ビルドが繰り返される。僕も東京で生まれ育って、世界中の空虚な姿を見た時に、この後どうなっていくんだろう。って思いました。

 この世界では、全てを更地にして、すぐに新しいものを作ります。とくに日本は容赦ないですね。懐かしものを残す前に、どんどん取り壊して、新しくしちゃう。ノスタルジーとか、人間の先祖から伝わってきた人の想いとか全部断ち切って、どんどんビルを建てていく。

田根 そうこうしていると、自分も東京で生まれて育ったので、外にでて実家に帰ってくると周りの家がどんどん新築に変わっていて、取り残された気持ちになりました。自分の育った環境がどんどん変わっていく東京の姿を見たときに、何か違うぞっていうのを感じましたね。じゃあ、ただ建物をデザインして土地に建てるだけの建築ではなくて、もっと場所が持っていた過去の記憶を掘り返すことによって、未来につないでいくものを作っていかないと、これからの建築は厳しいぞっていう意識が生まれました。
 

ザ・インタビュー  建築家  田根 剛「記憶をつなぐエストニア国立博物館」

Estonian National Museum “Memory Field”
courtesy of DGT. / Photo by Tiit Shild


 いい着想ですね。それは全てエストニアのコンペに通って、あそこに旧軍用滑走路があったからだよね。そこに旧軍用滑走路がなければ、今のその発想は生れたでしょうか?

田根 ないですね。そこにいて2、3年手探りでいろんなコンペ出したり、なかなか勝てずにいました。でも、やはり「過去を掘り下げて記憶を掴む」っていうところ、これなら建築を一生やれそうだなって思いました。

 田根さんがしたことって、スタイルを作るってことに近いんですよね。”タネイズム”みたいなのをそこで掴んだことは大きかったですね。すごいな。それが26の時ですか。ありえない話ですね。

田根 スタイルって意味でも当時はスター・アーキテクトっていう建築家が、世界中どこでも自分のスタイルを貫いて、同じデザインで勝負するっていう時期だったので、それとは違う考え方があるんじゃないかって思っていました。で、建築の醍醐味っていうのはやはり場所が一つしかないところに一つの建築を作るっていうすごくシンプルなことなので、自分のデザインやスタイルを押し付けて作るっていうよりも、やはりその場所を信じて作ることができればっていうところに、エストニアのアイデアが浮かんで、自分としてもこれをやりたいなって思いました。

 いい話ばかりではないみたいですね? エストニアの一部の人たちから負の遺産を相手にすることへの反発もあったって聞いてますけど?

田根 一番大きかったのは審査に参加していた歴史家の方が公式発表になるセレモニー前日にかなり大々的に猛反対の抗議文を書いたことです。それで、授賞式に出席した時にものすごい報道陣がいて、出てくる時に写真いっぱい撮られて、「国家プロジェクトはやっぱり違うなー」くらいに思っていたら、授賞式が終わった直後に記者会見があったんですけど、急にかなり厳しいバッシングの質疑が来て、僕たちは全然知らなかったので答えられることと、ほとんどは審査員が審査結果の理由をしっかりと伝える形になりました。
抗議文が出されてメディアが反応したことは後から知りました。

 歴史家は反対したけど、それが素晴らしいという人もたくさんいたということですね。

田根 そうですね。賛否両論があって、ソ連が崩壊してエストニアは独立したんですけど、エストニア人というのは国民の4分の1くらいがロシア人なんです。彼らをじゃあ社会的にどうやってエストニアにつないでいくかというと、ソ連時代というのは一つの時代であってエストニアが占領されてなくなったわけではないという。エストニアの長い歴史で見れば、それはある一つの時代にすぎず、そしてそこから次のエストニアにつなげていくにはこのプロジェクトしかない、ということになりました。

 負の遺産から始まって未来へ行く、それは我々にとってはプラスの遺産ってことですね。
滑走路の先に博物館があって、ちょうど離陸するような感じになっている。負の遺産から+の遺産への離陸を描いた素晴らしいデザインです。

田根 審査委員長だった文化大臣の方が、審査票みたいなことで、総評をくれた時に、「さまざまな世界中の建築家が提案してくれて素晴らしかった。ただ、DGTが提案したものというのは、ランドマークである。モニュメントではなくて、大地に刻まれたものをさらに土地につなぐ建物。なので、もうこれしか考えられなかった」という話をしてくれました。
 

ザ・インタビュー  建築家  田根 剛「記憶をつなぐエストニア国立博物館」

Estonian National Museum “Memory Field”
courtesy of DGT. / Photo by Tiit Shild


 素晴らしい。

田根 これが我々のものなんだ。我々のための提案なんだっていう話をしてくれました。

 歴史家の反発もよくわかるけど、それがあっても受け入れるってすごいことだね。この歴史をつなぐ建築を50代の建築家たちがやったのならわかるけど、20代の建築家たちがやったということがすごい。いつ博物館はオープンしたんですか?

田根 つい最近、10月1日(2016年)です。現場を何度も見ていて、美しいと思っていた建築が、オープンして人が入った瞬間に生き生きしてくるんですよね。それに僕も感動して。反響も非常によくて、つい一昨日行ってきたんですけど、そしたら人が想像以上に来ていて、1ヶ月で統計で3万2千人の人が来てくれました。

 いやあ、勇気と希望をもらえました。素晴らしいお話でした。田根さんのような人と会えて、今日はとっても楽しいです。もう少し、お話を聞かせてください。


つづく

 

posted by 辻 仁成