ノルマンディ、ツジ村便り
辻村相談窓口、「人生の後始末」 Posted on 2026/04/18 辻 仁成 作家 パリ
おつかれさまです。
花粉の舞う春でして、綿毛のようなものがものすごく飛び散っていて、雪景色のようなノルマンディ地方でございます。
三四郎も、いろんな花粉を身に着け、それはそれで可愛らしい感じです。
たんぽぽを見つけ、なんじゃこりゃあ、という感じで、食べようとしておりましたので、それは食べるものじゃなく、種子を吹いて遊ぶものだ、と教えてやった父ちゃんでした。あはは。
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さて、相談窓口を開く時間になりました。
匿名希望Bさん
「辻さんの人生って、いつもチャレンジに溢れていて、楽しそうだな、と思う反面、大変そうだな、と思うこともあって、遠くから、見守っているような昔からの一ファンです。長く辻さんの生き方を見てきましたが、最近、ちょっとシフトが変化しているような気もします。還暦を過ぎ、ますます、深いところに向かっているような感じも覚えますが、どういう境地を目指しているのか、少し、知りたいです。野心とか、もうないんでしょうか? 生きる意味をどこに見つけようとされているのか、とっても興味があります」


おこたえしまーす。
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「野心? あります。でも、ちょっと不思議な野心です。そうだな、年齢を重ねていくに従い、これまでとは違う人生との向き合い方が出来るようになってきた気がします。野心とか夢とか希望とかそういうものはまだあるのですが、何が何でも掴んでやる、というような野望はもうないかもしれないです。この境地というのをどう説明していいのか、自分も自分に言い聞かせるように考えてみました。ぼくが暮らすノルマンディは、フランス西部の片田舎にあり、人口は数百人程度・・・。アパルトマンは海沿いの古い漁師町にあり、50平米くらい、築150年くらい、最上階屋根裏の寝床です。アトリエは森の中にあり、最近はそこで寝泊まりすることも多いですが、もともと鍵を作っていた職人の工房、工場だった建物で(ただ同然の家賃)、最初はガレージ部分だけ借りていたんですが、仕事の依頼が増えたので徐々に拡張中。元工房だっただけあって、創作には適しています。裏のエブリンおばあちゃんの旦那さんがここを建てたと聞いています。絵を描き、小説を紡ぎ、歌の練習をし、夕陽が恋しくなると海沿いのアパルトマンに戻るような生活。山側に登る朝陽と共に起きて、文章を書いたり、絵筆を洗ったり、ギターの弦を替えたりしています。庭にハーブを植えたりして、自分で育てた野菜とか、植物を愛でています。夢や野心はまだあるんですが、30代のころのものとはずいぶんと変わってしまいました。今は、自然の中から人間性の回復を目指す、そういう創作を心がけるようになっています。その生き方を何と表現すればいいのか、わかりませんが、「小さく生きる」というのが、現在のぼくのポリシーです。自然を目の前にして、出来るかぎり小さなものを見つめるような人生を心がけています。米を研ぎ、野菜を炊き、魚を捌き、こと足りる量の食事を毎日心がけています。不思議なことに必ず「今日」がやって来るので、これはある種の「奇跡」だな、と思って、感謝をして過ごしています。大きな窓があるんですが、愛犬とそこに座って、流れていく雲をいつまでもじっと見つめていることもあります。庵のような場所です。ぼくは、きっと、ここの庵主ですね。人間の意味を自然は教えてくれるんです。いま「泡」という小説を書いていますが、人間は泡沫(うたかた)のような瞬間の中に生きていますが、身の丈にあった大きさの世界と向きあうことの意味をこの年齢で悟りつつあるように思うんです。人が死んだり、次々生まれたり、出来ては消える泡のような世界の中で、人間とはなんぞや、と考えない日はないです。苦笑いを浮かべながら、日々をやり過ごしているような、感じ・・・。誰にも会わない日もありますし、いろんな人がパリからやってきて賑やかになることもあります。でも、またすぐ、いつもの日常が戻ってきます。愛犬と散歩をし、タンポポを掴んで、ふっと、吹いて、種子を世界に撒き散らしたりして楽しんでいます。「小さく生きる」この人生は素晴らしいです。夕陽がものすごく綺麗で、毎日、圧倒されています。こんなに空を眺めているのに、同じ空に出会ったことがないんですよ。世界を抱きしめながら、自分の宇宙を慈しんでいる感じです。野心といえば、あと、30年くらい生きることが出来れば、3000枚くらいの絵画、30冊くらいの長編小説を残せればいいな、と思って、口許を緩めていることかな。でも、その野心は、ゆるやかなものであり、達成できなくても構わないような夢、泡、光、影、幻、です。愛犬に、おやすみ、といってから、ベッドに潜り込む日常、誰にも邪魔されず生きることの幸せの中に在る命、これが今のぼくの境地だと思います。3000枚、描いたら、あの世にいきますよ、ね、すごい野心でしょ。おしまい」






