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パリ・アート情報「世界遺産級の刺繍画、国境を越えて貸し出し。英仏で議論が巻き起こる」 Posted on 2026/01/24 Design Stories  

 
フランス、ノルマンディー地方の小さな町、バイユー(Bayeux)には、およそ1千年前に制作された価値あるタペストリー「la tapisserie de Bayeux(バイユーのタペストリー)」が伝わっている。
11世紀に制作されたこの“刺繍”作品は、当時のフランスとイングランドの関係を描いた、いわば「歴史絵巻」。武器、軍船、服装、戦闘方法などを今に伝える貴重な史料というだけでなく、ハレー彗星の出現を示す記録の一つとしても知られている。
 

パリ・アート情報「世界遺産級の刺繍画、国境を越えて貸し出し。英仏で議論が巻き起こる」

※バイユー・タペストリー美術館所蔵「la tapisserie de Bayeux 」Le Musée de la Tapisserie de Bayeux Instagramより



 
そのタペストリーが、実は2026年9月から、ロンドンの大英博物館に貸し出され展示される予定になっている。しかし素材は1千年前のタペストリーであるがゆえに、きわめて脆弱だ。
2020年以降の調査では、布地に24,204カ所のシミ、9,646個の穴、30個の裂け目などが確認されていて、1時間を超える輸送そのものがリスクだと指摘されてきた。2021年には、ノルマンディー文化局が「修復前にこの作品を輸送することは不可能である」と、明言している。

それでも貸し出しがすすめられている背景には、フランスのマクロン大統領の政治判断があるという。バイユーのタペストリーは、“ブレグジット後の英仏文化交流”の一環として位置づけられたのだ。
こうした状況から現在では、「歴史的遺産を外交の道具として扱っていいのだろうか?」と、フランスとイギリスの双方で強い反発の声が上がっている。
 

パリ・アート情報「世界遺産級の刺繍画、国境を越えて貸し出し。英仏で議論が巻き起こる」

※「la tapisserie de Bayeux 」は布に刺繍を施して物語を描いたもの Le Musée de la Tapisserie de Bayeux Instagramより

 
全長約70mのバイユーのタペストリーは、ノルマンディー公ウィリアム(のちのイングランド王ウィリアム1世)によるイングランド征服を描いた、非常に貴重な作品だ。タペストリーと呼ばれてはいるものの、実際には織物ではなく、画像の通りの“刺繍作品”である。バイユー・ステッチ(point de Bayeux)と呼ばれる、輪郭の内側を糸で密に埋めていく手法が用いられていて、2007年にはユネスコの「世界の記憶(Memory of the World)」にも登録されている。

そんな歴史的作品であるが故に、今回の貸与にかかる保険額も天文学的だ。イギリス政府はなんと約8億ポンド、ユーロ換算でおよそ9億ユーロ(約1,665億円)近くの保険を付保する予定だという。これは、過去のオークションで最高額を記録した作品、レオナルド・ダ・ヴィンチの『サルヴァトール・ムンディ』(4億5000万ドル=約697億5,000万円)の2倍以上に相当する。
 

パリ・アート情報「世界遺産級の刺繍画、国境を越えて貸し出し。英仏で議論が巻き起こる」



 
とはいえ、どれほどの保険がかけられようとも、一度ついてしまった傷は簡単には元に戻せない。一つの土地で1千年も守られてきた刺繍作品を移動させることについては、フランス国民からもイギリスの芸術家からも疑問の声が上がっている。
例えばフランスでは、2025年9月までに、貸与の中止を求めるオンライン署名が7万3000人以上集まった。さらにイギリスを代表する芸術家であり、タペストリーの熱狂的なファンだというデイヴィッド・ホックニー氏は、この移動を「来館者数を誇示したいという大英博物館の虚栄心によるものだ」、などと厳しく批判している。

フランスとイギリス、両国の美術館には、人類の宝ともいえる歴史的作品が多く収められている。国境を越えた作品の貸し借りは世界の美術館で昔から行われてきたが、民意を押し切ってすすめられる今回の移動がどのような結末を迎えるのか。引き続き注目が集まる。(大)
 

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