JINSEI STORIES

滞仏日記「また一つ歳を重ねた。父ちゃんが誕生日に思うこと」 Posted on 2020/10/04 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、年齢のことはあまり考えたくないけれど、こればっかりは生きてきた証拠だから、誤魔化せないし、隠すつもりもないが、61歳という年齢、思えば結構遠くに来たものだなぁ、と微笑みながらもふっとため息がこぼれてしまう。
でも、歩いてきた道のりに背を向けたくはないし、最後まで、堂々と胸を張って生きていきたい。
人生というのは自分が思う通りには動いてくれないもので、とくに自分を貫こうと思えば障害だらけだし、自分を抑えて我慢をすると生きる価値がわからなくなるし、と、実に厄介なものである。
それでも生きるのはなぜだろう。

滞仏日記「また一つ歳を重ねた。父ちゃんが誕生日に思うこと」



なぜ、お前は生きるのだ、と自問をするが、まことに面妖なことに、この年齢になってもそれに応えられる明確な答えを持ち合わせていない。
ぼくも所詮、動物なのだ。もっと言えば、所詮、命を天に頂いただけの生き物である。
だから、理由などはない。気が付いたら、生きていたし、気が付いたら教育とか、学校とか、法律とか、夢とか、愛だとかに振り回されて、まあ、やっとこの年齢になって、だいたいのことが分かってきた。
それでも、人間はこんなに考え方が違っている生き物なのだから、答えを一つぽんと用意することは不可能に近い。
ただ、そのことだけを理解するために、61年、いやはや、人生とは恐ろしいものである。



しかし、こうやって生かされた人生だから、もちろん、死ぬのも自由だし、抵抗するのも自由なのだけど、ぼくは生き切ってみたいなぁ、と思っている。
楽しいことや、面白いことよりも、辛いことや不条理なことの方が圧倒的に多いこの人生だけど、せっかく生まれてきたのだから、もうちょっとだけこの世界を探求してみたい、と思う。
嫌な人間の方が多いような気もするけれど、物凄く気の合う人もいる。
そういう人たちと出会うことは生きる宝だと思う。
いろいろと語り合えることは楽しい。
不味いものもあるけれど、意外と、美味しいものはたくさんある。ああ、美味しい、と思えることだけでも生きてよかった、と思う。
苦手な音楽もあるけれど、素晴らしいと感動できる音楽って実はもの凄く存在する。
これらは人間が創ったんだと思うと、生きることが楽しくなる。ましてや、好きなアーティストのコンサートなんかに出かけていく時のあの高揚感、あれはたまらないねぇ。
仕事だって、きつくて苦しいことがあるけれど、人間はやっぱり働くことが大事なのだ。
ロックダウンの時、ぼくの周りの人たちは、みんな何もできずに暗かった。
働くのが嫌で嫌でしょうがなかった連中が、ロックダウンが終わり再び社会が動きだした途端、みんなが笑顔になって、文句も言わず働くことを喜んでいた。
カフェのクリストフが駆け寄って来て、ぼくの前で、「嬉しいんだ、嬉しんだ、こうやって働けること、君やみんなにまた会えることが」って、言った時、涙がこぼれた。
今日、彼のカフェに行ったら、レストランが再び閉鎖される可能性がある、と呟いたけど、でも、彼はもう前向きだった。
日本のみんなにメッセージを、と頼んだら「人生を楽しもう」とこんなポーズをとってくれた。この笑顔だけでも、感動屋さんのぼくは嬉しくなる。

滞仏日記「また一つ歳を重ねた。父ちゃんが誕生日に思うこと」



こういう人を見つめていこう、と思った。
本当にいい人間はいる。そういう人たちは人生の灯台のような存在だ。辛くなったら、人間に頼るのがいい。
ぼくも誰かの灯台のような人間になれたらなぁ、と思った。
まだもう少しは生きられるはずだから、スクラムの一部に混ざりたい。クリストフに貰った感動に負けない光りをともせるような人生を歩んでみたい。
曲がりくねった険しい道だけど、そういう仲間たちと共に同時代を歩いているのだ、と思えば、苦痛も幸せに変わる。
ぼくは、そういう61歳を生きてみたい。

滞仏日記「また一つ歳を重ねた。父ちゃんが誕生日に思うこと」

コロナ禍で大変な時代だけれど、大丈夫だよ。
ぼくは今年も笑顔でがんばる。あなたもどうか、無理をしないであなたらしく生きてください。
人間であることが、良かった、と思える一生を探求しましょう。



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