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滞仏日記「孤独」 Posted on 2020/11/14 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、息子が登校するとぼくは一人になる。割とこの時間が長い。何をしているかというと執筆や料理がほとんどだけど、一番好きなのは、ふくらはぎのマッサージだ。本当は長時間やっちゃいけないと説明書に注意書きがあったが、毎回、30分くらい丹念にやる。パナソニックの指圧マシーンSW-RA38、ネットで見つけて買ったのだけど、これがないと辛い。とくに足裏のマッサージが最高で、足の甲をぎゅ~っと揉んでくれる可愛い子ちゃんなのだ。ぼくはこのマッサージ器に「マーちゃん」というニックネームを付けた。「マーちゃん、最近、骨と肉の間くらいがなんか超モワモワするんだ、歳かな。なんとかしておくれ」「ガッテンだ」マーちゃんが、男性か女性かわからなかったけど、ガッテンだ、というなら男性ということになる。「マーちゃん、そこ、そこだよ、ばっちり、ううう、気持ちい~」と声が出て、毎日、午前中は軽く30分、悶絶している。

滞仏日記「孤独」



マッサージの後は窓辺で最近買ったヤマハのクラシックギター「NCX2000FM」を奏でる。このギターで演奏しているのはラベルの名曲「ボレロ」だけど、最初は親指のダウンピックがうまく出来なかった。でも次第に上手になって来たので、この頃は、窓を開けて、わざとロックダウンで人のいない通りに向けて演奏し、反響する自分のギター音にうっとり酔っている。引っ越したばかりなので、この辺に知り合いはいないから、ぜんぜんオッケー。でも、お向かいに一人暮らしの同い年くらいのおじさんが住んでいて、この間、目が合って、お辞儀をしたら、お辞儀をしてくれた。今週はずっと彼が聴衆になってくれている。多分、彼は若くないので、コロナが怖くて家から出ない。昼間はずっと窓辺で本を読んでいる。名前は知らないけど、ぼくはアーサーと一方的に名付けた。もう少し、具体的に説明すると頭髪がない。で、優しい顔立ちだ。小説好きなようでほぼ毎日、読書をしている。コーヒー派ではなく、いつも紅茶のポットでお茶を飲んでいるけど、それが何茶か、までは分からない。勝手にダージリンじゃないか、と想像して微笑んでいる。あ、そこまで知りたいとは思わないけど、でも、孤独を癒す相手だから、親近感を覚えてならない。アーサーが窓辺にいない日はちょっと寂しいな、と思うこともある。アーサーは多分、58歳から65歳の間くらいじゃないか、と思う。一昨日、「ボレロ」の演奏が終わると、窓辺から身を乗り出して、拍手してくれた。乾いた手の音が、狭い通りに響き渡っていたが、その哀愁のヨーロッパ感が好きだった。メルシー。

滞仏日記「孤独」



でも、これが不思議なことなのだけど、昨日、買い物帰りに、アーサーとすれ違った。もちろん、マスクをしていたけど、あの頭髪、見ればすぐにわかる。ぼくはハンチングをかぶっていたから分からないのかな、と思い、帽子をとって、手を振ってみた。アーサーもぼくだと気がついたようだが、ちょんとクールにお辞儀をされただけで、なんと、素通りされてしまったのだ。え~? それだけ? 「ボレロ」に拍手してくれたじゃん? いつも通り越しに笑顔を向けてくれるのに、なんで? 失恋した女子高生のような悲哀を感じてしまった。人間なんて、そんなものかもしれない。あまり誰にでも彼にでも愛想振りまいちゃダメだ、という話しである。

アーサーのことは忘れることにした。



フランスの家は表通りに面した側と中庭側に面した側にだいたい窓がある。新しいアパルトマンにも中庭側が存在する。そこの窓を開けると、午後のだいたい15時くらいに、女性がオペラを歌う。これが結構、上手いのだ。ほれぼれするくらいの高音だけど、もしかすると有名なオペラ歌手かもしれない。ピッチも完璧だし、とにかく声の伸びが半端ない。マリア、とぼくは名付けた。もちろん、マリア・カラスからとったのだけど、でも、どの部屋で歌っているのかまでは、分からない。何度か身を乗り出して、アーサーみたいに拍手をしたこともあったが、やすやすとは出てこない。ところが今日、中庭に面した、多分、一つ下の階のムッシュだと思うが、マリアの声が一瞬途切れた瞬間に「もっと小さな声で歌ってくれ。うるさくて仕事が集中できない」と叫んだのだ。ぼくは衝撃を覚えた。あんな美しい声を無料で聞けるというのに、このオヤジのなんと無粋なことか、と思ったら悲しくなった。もちろん、マリアの歌声が消えた。暫く彼女は歌わないだろう。ぼくも気を付けなきゃ、と思った。さようなら、マリア。哀愁のヨーロッパである。



とにかく、心配しないでほしい。家から出なくても、毎日、いろいろな空想世界でぼくは楽しく生きている。フランスは二度目のロックダウンのせいで超暗い。みんな心がギスギスしている。日本も感染者が増えているというニュースを読んだ。第三波と騒いでいるみたいだが、欧州の感染者数と比較したら、そんなものまだ第一波にもなってないのじゃないか、と思ってしまう。用心をしてほしい。コロナが変異し感染力を強めているようだから、アーサーもマリアもぼくもこれからはもっとおうち時間を大事にしないとならなくなる。元気なのは学校に通っている子供たちだけだ。幸いなことに、学校再開後、国内の学校からクラスターは出ていない。やはり、子供は大人よりも感染源になりにくいのだろう。



6区にある串揚げ屋「SHU」の幕の内お弁当を注文し届けて貰った。息子に「何がいい?」とSMS送ったら「CHIRASHI」と速攻戻ってきた。やれやれ。こういう時はすぐに返事が戻ってくる。今夜はキッチンには立たない。たまには贅沢をさせてもらう。こういう時代だ、ロックダウンが終わるまで、のんびりとやるのが一番だ。

さてと、アーサーは今夜いったい何を食べているのだろう? 

滞仏日記「孤独」

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