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滞仏日記「恵方巻きからの絶体絶命、生きる希望を奪われた父ちゃんやいかに」 Posted on 2021/02/07 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、いや~、今日はやばかった。マジ、死ぬかと思った
何度も「終わった。もうあかん」と呟き、涙が溢れ出るのを堪え続けた。
話しは恵方巻から始まる。心を病んだマノンから、昨日の夜、「もうダメ、うちの親は最悪、ムッシュ・ドロール(変なおじさん)の家に逃げたい」というメッセージがあり、「じゃあ、ランチでも食べにおいで」と伝えた。
で、今日、昼少し前に、ニコラとマノンがやって来た。
実は、2月3日で「後厄」があけていて、気をよくしていた父ちゃん、今日は気合いれて、少し遅いけど「恵方巻き」を作ってフランス生まれの三人に食べさせたいと思ったのだった。名案でしょ?
父ちゃん、その時はまだかなり元気で、精力的であった。
そのあと、地獄が待っているとは思いもしない、…。
「ぐっばい、あとやく~、ぐっばい、あとやく~」と笑いながら歌っていたくらいなのだから、…。

滞仏日記「恵方巻きからの絶体絶命、生きる希望を奪われた父ちゃんやいかに」



離婚した親への不満をぶちまけるマノンに、「親だって生きてるんだ、これからは自分を大切に生きなさい。今日は幸福を呼ぶ、日本の巨大お寿司を作ってあげるから」などと、調子のいいアドバイスをしていた父ちゃんであった。
恵方巻きの歴史とか、意味を教えながら、二人に巨大な海苔巻きを作っていったのである。俳優の玉城裕規君が昔、ぼくが演出する舞台のけいこ中に、恵方巻きをガブっと頬張ってる写真があったので、二人にみせて、こうやって幸福を引き寄せるのだよ、と教えてあげた。へー、と興味深そうに見入るフランスの子供たちだった。
ということで、これが、元気だった午前中の父ちゃんが拵えた恵方巻き軍団である。

滞仏日記「恵方巻きからの絶体絶命、生きる希望を奪われた父ちゃんやいかに」

滞仏日記「恵方巻きからの絶体絶命、生きる希望を奪われた父ちゃんやいかに」



「いいかい、今年の幸運を呼ぶ方角が南南東だから、この方角を向いて、ガブっと齧りつくんだよ」
子供たちの前で実践してみせた父ちゃん、豪快にがぶりついた!
「で、全部食べ切るんだよ」
と偉そうに言ったら、息子が、
「パパ、食べ終わるまで喋っちゃいけないんだよ。まず、食べる前に目を閉じて、今年の方角を向いて、願い事を心に思い浮かべてから、黙って食べきらないといけないんだ」
と言った。へッ、
「喋っちゃったよ。はよ、言えや。じゃあ、喋ったら、どうなるの?」
「喋ると福が逃げるんだ」
ぼくは大笑いをした。福が逃げる? パパは2月3日に後厄が終わったんだ、もう、これからは福しかこないんだよ。だから、大丈夫だっつーの」

滞仏日記「恵方巻きからの絶体絶命、生きる希望を奪われた父ちゃんやいかに」



で、子供たちを家まで送り、その足で、ぼくはNHKさんから指示されていた撮影用iPhone12を買いに家のすぐ近くにあるアップルストアまで行った。
キッチンに固定カメラとして備え付け、それで日常を撮影しようというわけである。
このアップルストアに本人が雨の中、るんるん小躍りでiphone12を買いにいく姿の方が、よっぽどドキュメンタリーっぽいかもしれない。
しかし、そこはドキュメンタリー撮影の難しいところである。
なので、皆さんには副読本として、この日記を通して、もう一つのドキュメンタリーを楽しんで貰えばいいんだよね、と思いついた父ちゃんであった。えへへ。

ぼくは大雨の中、傘を差して順番待ちすることになる。
雨雨、ふれふれ、父ちゃんがぁ~。
今は外出制限が厳しくなり、大型店舗には予約を入れた上で、しかも、結構人が集まっている中、順番を待たないとならなくなった。これが現実なのであーる。
でも、父ちゃんは平気だった。
なぜなら、後厄が抜けて、幸せだったからであーる、…。

地球カレッジ

滞仏日記「恵方巻きからの絶体絶命、生きる希望を奪われた父ちゃんやいかに」



アパルトマンに戻り、とりあえず、撮影用携帯を取り出し、古い携帯のデータを新しい方に移さないと起動しないので、データ変換作業をやろうと思った。
いつも通り、何気なく、自分の携帯を開こうとしたら、「パスワードコードを入力」と言う画面が現れた。
いつも通りのことである。
一瞬、躓いたのだけど、気にせず番号を入れたら、その丸い六つの枠が、違うよ、という感じで左右に小刻みに揺れた。

え? 

その時はまだ恵方巻きの呪いだとは思ってもいないので、あれ、間違えちゃった~、くらいのノリで、素早くもう一度入れ直したら、おえ…、また、ぶるる、と左右に小刻みに揺れるじゃないか!
そこで、自分はもしかしたら、暗証番号を間違えているのか、と思って…。
(;^_^A
三度目も、四度目も、五度目も違った。
冷や汗が出てきたのはこの時からで、もし、このまま思い出せなければ、健忘症ということになる。
え、恵方巻き、えほう…。



暗証番号を忘れるわけはない、と気を取り直して、さらに何度か、番号を続けてプッシュしていたら、いきなり画面に、
「iPhoneは使用できません。1分後にやり直してください」
と表示されてしまった。
「くゥ、なんで?」
その時、我が身に起きた異変に初めて気がつき、不意に、凍り付いてしまったのであーる。やば、…。

何度もしくじると、携帯が使えなくなると思い、一度、頭を冷やすことにして、ギターを弾いたり、風呂に入ったり、ゴロンと横になって寝てみたりした。
後厄は終わったはずのに、恵方巻きを黙って食べなかったせいで、福が逃げてしまったようだった。
いや、そんな生ぬるいレベルではない。
なんで、十年以上も打ち続けてきた番号がわからないのか、そしてそれは健忘症の始まりを意味してないか、と考え、背筋が凍りついてしまうのだった。

ここで、ぼくが健忘症になったら、小説「父」をそのまま地で行くことになる。
あの作品の主人公タイジは70歳になった自分だった。
記憶があやふやになった父を大学生になった息子がパリ中走り回って探すという設定、…まさに、あれは預言の書ということになる。
それで、ぼくはパソコンを使い、健忘症について調べてみた。
「もしも、忘れていた暗証番号を思い出せるなら、まだ健忘症とは言えないでしょう。もう一度冷静になって思い出してみてください。しかし、それでも、完全に思い出せない場合、すぐにお医者さんにご相談ください」

ぬわーぁーにィーーーーーーーーーー!



 
ぼくは絶望のど真ん中に、一瞬にして墜落してしまったのだった。
ああ、なんてことだ。一体僕が何をやったというのだ。恵方巻き、…。そんな~。
シングルファザーでこれから大学受験を控えている息子に暗い不安要因を与えることになる。
彼の未来を健忘症のせいで潰すことになってしまう。
ぼくはへたれこみ、急に、20歳くらい老けこんでしまった。
もうダメだ、もういけん、…。終わった。
ぼくの人生はついに終わってしまった。頭を抱え、手元にある最新型のiPhoneを見つめながら、涙を流し、脱力したのだった。
ああ、くそォ、恵方巻きのせいだぁ~~~、なんなんとーめ、…。

「パパ、どうしたの? 何叫んでるの?」
「すまん、…、パパの、せいで、おまえの、じんせい、をふこーに、させてしまうかもしれない、ううう」
「何言ってるの? 聞こえないよ」
「えほ~まきのせいでぇ、えほえほ、、」
息子は笑った。
「顔認証ばかりやってるから、忘れちゃったんだよ」

そのあと、二回くらい、暗証番号を試みたのだけど、やはり思い出せず、恐ろしいことに、
「iPhoneは使用できません。5分後にやり直してください」
「iPhoneは使用できません。15分後にやり直してください」
「iPhoneは使用できません。30分後にやり直してください」
と続いた。

ああああ、辻仁成の終わりだぁ、という地獄絵巻恵方巻きの状態になったのであーる。
マジで、それは恐ろしい事態だった。
…これは、そ~なるよね。
『落ち着けひとなり』
すると、どこからか、声が聞こえてきた。
ベッドに頬を押し付けて泣きはらした目を擦って、天井を見上げた。
すると、さっき食べた恵方巻きが現れたのであーる、気がした、…。
ぼくは起き上がり、もう一度、冷静に暗証番号のことを考え直すことになる。
うっすらだが、右手の人差し指がタップした空間とか位置を覚えている、気がする。
そこに微かな希望があった。南南東に向かって、
「人差し指君、君に、全未来がかかってる、と頼んだ。この星の未来は君の指先にかかっているんだ」
と告げてみた。
す、すると、指が最初の数字を叩いたのである。
あ、マジか、ケ、携帯が、ひか、光った。
次の瞬間、人差し指君が二番目の数字をタップした。でも、ここまでは間違えていた番号と一緒だった。
しかし、人差し指君はめげずに、さらに、さらに動いた。

わ、光った!

ぼくは立ち上がり、南南東に向かって、「恵方巻きさま、申し訳ありませんでした。心を改めます、ひとなりをお救いください」と叫んでいた。
そして、一気に、iPhoneのパスコード入力の番号を押したのだった。
携帯の画面がすっと光りに包まれていった!
うおおおおおおおおおおお~神様仏様、恵方巻きさま! 
じゃじゃーーん、ひかったぁ!!! 
「やったーーーーーーー。思い出したぁ、ありがとうございました~」

つづく。

滞仏日記「恵方巻きからの絶体絶命、生きる希望を奪われた父ちゃんやいかに」

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