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退屈日記「朝のクロワッサンと雪景色。どうでもいい、どうでもよくないこと」 Posted on 2021/02/10 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、今、この退屈日記を書いているのは朝の9時10分(日本時間17時10分)だが、普段なら息子はすでに学校に行ってる時間なのだけど、どうやら今日は、10時からのようだ。息子の気配がある。
カーテンを開けて、外を見てびっくり。
雪が降ったようだ。
そこかしこの屋根や、車のボンネットにうっすらと雪が積もっている。
雪が降るぞ、と昨日の天気予報で言っていたがその通りになった。
フランスの北半分は昨夜雪が降ったようだ。
寒いけどれ、厳かで少し美しい冬のパリである。
パリはあまり雪が降らないから、こうやって、雪景色を見ると、ちょっと嬉しくなる。

退屈日記「朝のクロワッサンと雪景色。どうでもいい、どうでもよくないこと」



ぼくは起きて、昨日、ピエール・エルメで買っておいた、イスパハンのクロワッサンを袋から取り出し、テーブルの上に置いてみた。
大好きなコーヒーを淹れ、朝食タイムのはじまりである。
うーむ、この朝のひと時がたまらない。どんなに忙しくても、いつもここでリセットをする。
今も書かなければならない原稿の締め切りや、NHKの撮影のことなど、なんだか家から出ないのに、パソコンを開くとてんこ盛りの人生。
でも、どんなに忙しくても、どんなに怒っていても、どんなに心が疲れていても、朝一杯のコーヒーとクロワッサンで、エンジンがかかる。
こういうのを優雅というのだと思う。
優雅っていうのは贅沢じゃなく、自分の時間を確保し、自分のペースでゆとりを確保することだ。
もっとも、イスパハンのクロワッサンはちょっと贅沢だったねェ。えへへ。

退屈日記「朝のクロワッサンと雪景色。どうでもいい、どうでもよくないこと」



メールをチェックしたら東京の個人事務所の菅間さんから以下のメールが入っていた。
この人は、毎日、この30年間、ぼくの窓口業務をしてくださっている。
あらゆることは菅間さんからぼくに、連絡が届けられるので、朝はだいたい菅間さんからのメールが郵便受けに積みあがる手紙のような状態になっている、ところからスタートする。
『江國さんが一度辻さんからメールいただき、返信したのですが、もしかして、私の返信メール着いてないのかな? と言ってられましたが・・。10日 菅間』
ふむふむ。江國さんとの講座がまもなくだけど、この数年、ぼくたちはなぜかメールのやりとりが出来ない状態が続いていた。
ぼくが出すメールはことごとくブロックされていたのである。
それでぼくは先月このようなメールを江國さんに菅間さん経由で伝達している。
『江國さんにメールしたのだけど、返事がないので、もしかしたら、届いてないのですかねェ』

笑。

そこで、菅間さんを経由して、講座をやる前にメールで繋がりたいと申し出たら、江國さんから携帯メールのアドレスが回ってきたので、ぼくも携帯メール(ほとんど使ったことがない予備メール)から「お久しぶりです」と送ったのだ。
それに対して江國さんは返信を送ったのだが、その返事がないという連絡である。
のんきでややこしい関係だが、こういう関係でも作品が生まれるという実に興味深い話しではないか。笑。

退屈日記「朝のクロワッサンと雪景色。どうでもいい、どうでもよくないこと」



ところが、ここにNHKからドキュメンタリー制作の依頼があり、自宅撮影は自撮りということになりiPhone12を買うよう指示を受け、買い替えたのは先の日記に譲るが、機能移転作業のあいだで、江國さんのメールが消えたということかもしれない。
見当たらないのである。
そこで、ぼくは見当たらないというメールをこれから認めることになる。そうこうしているうちに、日曜日は間もなくやってきてしまうのだけれどね、…。
でも、これがぼくと江國香織さんとの関係を物語るに一番ふさわしい逸話かもしれない。

退屈日記「朝のクロワッサンと雪景色。どうでもいい、どうでもよくないこと」

というわけで、雪景色を眺めながら、ぼくは江國さんとの出会いなどを思い出しながら、コーヒーとクロワッサンを飲んで、これから始まる一日のことを想像し、くすっと微笑んでしまった。優雅でありたい。
それは心の持ちよう一つなのだと思う。一杯のエスプレッソなのである。
あ、息子に動きがあった。そろそろ登校するのだろう。
今、この瞬間、ぼくは自分の人生を喜んでいる。日本時間2021年2月10日17時33分で、フランス時間、9時33分ということになる。

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