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滞仏日記「ぼくは幽体離脱をした。あれは明らかに身体から離れる自分だった」 Posted on 2021/06/02 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、たぶん、寝ている間にぼくは幽体離脱をしていると思う、と息子に言ったら、夕べ、夜中、パパの部屋、騒がしかったよ、と言われた。・・・やっぱり。
「どんな感じだったの?」
「知らないけど、なんかベッドが軋んでいた」
息子の部屋とぼくの部屋はかつてコネクションのドアがあったのだけど、今は閉ざされている。
だから、薄い扉一枚で繋がっているのだ。つまり、音が筒抜けなのである。
「ドスンって音が2度した」
「天井まであがったかな」
なんか、浮かんでいたような感じがして、それからふっとぼくを支えている手が離れて、すとんとベッドに叩きつけられるような感じが何度かあり、たぶん、その都度、わー、とぼくは叫んでいたかもしれない。
でも、最後はすごい、極楽のような光りに包まれた野原にたどり着いて、静かに目が覚めるのだけど、深夜にジェットコースターに乗っているようなもの凄いことが起きていた夢の残滓が、今も、確かに、頭の片隅に残っているのだ。

滞仏日記「ぼくは幽体離脱をした。あれは明らかに身体から離れる自分だった」



で、朝は穏やかにはじまり、家は光りにつつまれた。
2年も続いた水漏れの工事をやるということでこの建物専属の工事業者ロマンが朝の九時にやってきて、水漏れ箇所をチェックしたのだけど、その時、ぼくの寝室の暖炉の上の鏡の上に彼が手形を発見してしまう。
「ムッシュ、なんですかね、この手形?」
前にも手形がついていたことは、昔の滞仏日記に書いたので譲る。その時、ちゃんと拭き掃除をしていたのに、今回新たに鏡の下から上に横断する手形があった。
「またか・・・」

滞仏日記「ぼくは幽体離脱をした。あれは明らかに身体から離れる自分だった」



ロマンが湿度検査をすると、玄関の天井と壁の湿度100%、息子の子供部屋の天井100%、という凄い結果が出た。
「絶対、おかしいでしょ? なんども上の配管を調べて、すべて修理したはずなのに」
「おかしいですね。しかし、これが乾くのを待ってるといつまでも壁の崩落はとまりません」
壁や天井が水漏れのせいでやや崩落しているのは、何度も日記で書いてきた通り。実はあれがまだ続いているのだ。
で、ロマンはこの分野のトップで「彼に直せない壁はない」と言われた男だそうで、「必ず、直せます」と言い切った。
「しかし、ぜんたいで一月くらい工事がかかります。一度、壁を全部表面だけ剝がして、夏のあいだ、自然に乾かす。表面を剝がすことで乾きが早くなるんです。で、湿度が落ち着いたところでセメントを塗って、それから塗装・・・」
「そのあいだ、ぼくと息子はどうしろって言うの?」
「バカンスに出るタイミングがあれば、鍵を預かってぼくが責任もって工事します」
「いや、もういい。その必要はない」
「もういい?」
「いつか自然に乾くのであれば、ぼくは面倒くさいことで時間を奪われたくない。引っ越すまで工事しないでいいという意味だよ。大家さんに言っといて、うちに人を招くこともないし、来ても近所の子供だけだから、壁がこれ以上崩落しないなら、このままでいいですって」
ロマンさんは、「そういう手もあると思います。工事している間は、ここで生活できないですからね」と言った。
息子は受験生なのだ。彼が大学に入ったら、もう引っ越すしかない。
それより、ぼくが気になったのは暖炉の上の鏡についた手形だった。
「ロマン。一番上の手形って、どの辺にあるの?」

滞仏日記「ぼくは幽体離脱をした。あれは明らかに身体から離れる自分だった」



天井までの高さは3メートル50センチ。鏡は天井の下10センチのところまで続いている。
背の高いロマンが爪先立ってチェックをした。天井の一番上、ぼくはベッドの脇から見上げた。
「一番上にもついてます」
「マジか? 誰が? 前に一度拭いたんだよ」
「かなりの大男ですね」
「いや、幽霊の仕業かもしれない。綺麗に拭いたのに、またついた。何度も修繕しているのに、水が漏れ続けている」
「ありえますね。この辺にナポレオンが住んでいたという伝説がありますし」
「ナポレオンだって!!!」
「前に、下の階のムッシュが、階段を上る貴族の人とすれ違った、と言ってました。それがナポレオンにそっくりだったのです。一説によると、ナポレオンが通いつめていた女性がここに、たぶん、ムッシュの家に、住んでいた?」
「いやいや、それはない。ナポレオンはぼくよりも小柄だったから、あんな高いところに手が届くわけがない」
「そうですね。3メートル50センチの身長のある人間なんていない。浮かばないかぎり、無理だ」
「えええええええ????」
とその時、ぼくの脳裏に一瞬、浮かんだ記憶が蘇ったのだった。
あれ、まさか、ぼくの手形か?



ロマンが持ってきた巨大な脚立を借りて、登ってみた。脚立をロマンが支えている。
巨大鏡の一番上にある手形に、自分の右手をあわせてみた。うーん、判断がつかない。ぼくの手かもしれないけど、もっと大きな人の手かもしれない。
「どうです? ムッシュ」
「いや、どうだろうね」
ぼくはロマンを見下ろした。するとロマンの足元のじゅうたんに目が留まった。ぼくは用心しながら脚立から降りて、絨毯の端っこを見た。赤い血痕のようなものが付着している。

滞仏日記「ぼくは幽体離脱をした。あれは明らかに身体から離れる自分だった」



「これ、血じゃないか?」
ロマンが、仏語で、ぞぞぞ、と言った。
ぼくらはお互いの顔を見合わせた。
数秒、時間が止まった。心臓も止まった。
「ちょっと待って。ムッシュ。ぼくの仮説はこうです」
「うん」
「ムッシュは昨日の夜、ここでボルドーの濃厚な赤ワインをしこたま飲んだ」
「えええ? どうしてわかるんだぁ」
「そして、こぼしたんです。これは赤ワイン!」
「ええええ? じゃあ、手形は?」
「酔っぱらったムッシュが暖炉によじ登り、一番上に手をついたぁ」
「えええええ?」
「もしかして夜中に、ベッドに飛んで遊んだりしてないですよね??? 羽ばたいた記憶ありませんか????」

つづく。

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