JINSEI STORIES

滞仏日記「息子と語り合った。これまでのこと、これからのこと」 Posted on 2021/06/04 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、とくになんでもない一日であった。
ただ、息子がぼくが書き物をしていると、仕事場に顔を出し、ぼくの机の前にある小さなソファに座った。
あれ、珍しい、と思った。
でも、ちょうど小説の大事な場面だったのでほったらかして書き続けていた。
山場が過ぎて、一息ついたら、まだそこに座っている息子がいた。
ここにやってきてから30分ほどが過ぎていた。あれ、珍しい、と思った。
「どうした?」
と息子を見ながら、言った。
息子がぼくの仕事場に顔を出したことあったかな? 
もちろん、コピー用紙取りに来たり、学校の書類にサインをもらいに来たりしたことはあったけど、こんなに長い時間彼がここにいたことはなかったかもしれない。
息子は一人掛けソファに身体を預けて、携帯を見ている。
天気予報が二日続けて続けて外れて、快晴であった。
「いろいろと考えている」

滞仏日記「息子と語り合った。これまでのこと、これからのこと」



息子はそう言ったきり、また黙った。
何か、話したいことがあるのかな、と思った。
ぼくは一度コーヒーを淹れに仕事部屋を離れた。
キッチンに行き、コーヒーマシーンでコーヒーを淹れ、戻ってくるとまだ息子がいた。
机に座り、
「何を考えてるの?」
と聞いてみた。
「いろいろ」
携帯を覗き込んだまま、息子はそう告げた。
それからまた数分が過ぎた。
ぼくはミルク・チョコレートをかじりながらコーヒーをすすった。
これがうまいのだ。
やっと小説にエンジンがかかった。
物語が動きだす時というのがあって、何かの糸口のようなものを見つける瞬間というのがあって、実は、その時であった。
そういう時は集中して書きたいのだけど、息子が目の前にいた。
それは非常に珍しいことだったから、無視できなかった。
糸口を逃すかもしれないけど、息子は何か重大な岐路に立たされていて、それを相談したくて、仕事部屋にやってきたのかもしれなかった。
だから、小説に戻りたいのだけど、出ていけ、とも言えず、困っていたのだ。
それと、彼が仕事場のソファにぼくが仕事をしている最中に来るのは珍しいことなので、嬉しくもあるし、こういう時間も悪くないなぁ、と思っていると、
「二人で暮らしだして、8年だね。数えたら」
とぽつんと言った。
なんとなく、体制を整えるために、ぼくはコーヒーをもう一度すするのだった。
「そんなになるね」

滞仏日記「息子と語り合った。これまでのこと、これからのこと」



なんとなく、昔の家族のことが話題に出るのかな、と思って身構えた。
この子と昔話とか、この子のお母さんのことを話したことがない。
あったかもしれないけど、思い出せないくらい、話題に出ることは今までなかった。
タブーのような感じで、二人とも、なんとなく、避けているような節があった。
そういう話しになったら、どうしよう、と思った。
避けてきたわけじゃないけど、この子が語りたがらないので、その話題に触れたこともない。
でも、8年も話題に出ないのも普通じゃないし、と思ってはいた。
しかし、あえてぼくから話すことでもないだろうから、ぼくの方から家族が三人だった時代のことは語ったことはない。
「ぼく、あと半年で18歳だからね」
「そうだね。成人になるな。あと半年で」
ぼくも自分の仕事椅子に身体を預けてみた。
天井を見上げた。
光りが反射して、そこに光りの模様を作り出していた。
「いつもパパはキッチンにいたね」
「料理好きだからね」
「うん、ずっとパパのご飯を食べてきた」
なんだよ、何がいいたいんだろう、と思ってドキドキした。
なんかとてつもないことを相談されるのじゃないか、ともう一度身構えてしまった。
体制を整えるために、もう一口、コーヒーを飲もうとしたのだけど、空だった。

滞仏日記「息子と語り合った。これまでのこと、これからのこと」



「どうだったこの8年」
息子が身体をおこし、窓の外へと目をやった。
その横顔を見た。大きくなった。もう小さな息子じゃない。
大きな息子だ。大きな息子はいま、人生の岐路に立っているようだ。
「よかったよ」
彼はいつだって、よかったよ、と呟く。学校どうだった? と8年前、心配だったので、毎日訊いた。
よかったよ、と夕飯の時間にぽつんと言った。
で、何か楽しいことがあった時だけど、自分勝手にしゃべって、ぼくがそれを訊くという感じ。
こっちらか何か聞き出そうとすると不機嫌な感じで、うん、ま、大丈夫、とだけ言った。
変なやつなのだ。
微笑んでいると、
「でも、いい時間だったね」
と言った。
もう一度、息子の横顔をみた。なんか凛々しくなった。
切れ長の目だ。ぼくはたれ目だけど、この子はきりっとした歌舞伎役者のような目をしている。
大きな黒い目だ。おとなしい子でこの子が怒ったのを見たことがない。
ぼくはしょっちゅう怒ってるけど、ぼくとは正反対の大人しい子である。
「そうか、よかったな」
「うん」



「何か言いたいことあるの?」
とぼくは訊いた。立ち上がる気配がないからだ。
「邪魔?」
「いいや」
「邪魔なら、部屋に戻るけど」
「いいや、ぜんぜん、いろよ」
「うん」
ぼくは仕事に戻った。
さっき書いたところを読み直した。小説というのはそういうものなのだ。昨日、書いたところまでを必ず、朝に読み返す。さっき、書いたところまでを必ず、読み返す。寝る前に、今日書いたところまでを必ず読み返す。そうやって少しずつ少しずつ書いていく。
こういう日記やエッセイはほぼ読み返さない。
そこが同じ日本語の仕事でも大きな違いなのだ。
ぼくと息子の時間はまるで小説を書くようだったな、と思った。
少しのあいだ集中をしていると、
「パパ」
と息子が言った。
ぼくが顔をあげると、大きくなった息子が立ち上がり、
「これまでのこととか、これからのこととか考えていた」
と言った。
「そうか。それは大事なことだな」
「うん。でね、今度、ウイリアムとアレクサンドルと日本に行くつもりなんだ」
「前に聞いた。いいんじゃないの」
「大学が決まったら、三人で行こうって決めてる。もしかしたらトマも来るかもしれない。みんな日本にどうしても行きたいんだって。ぼくが案内をしたい。ババのところにも連れていきたい」
「いいね」
「それまでに全員ワクチンを打つ。そしたら行く」
「分かった。その時は応援する」
「ありがとう」
息子が振り返った。笑顔だった。肩に太陽が降り注いでいた。そう言い残すと息子は仕事場から出ていった。

滞仏日記「息子と語り合った。これまでのこと、これからのこと」



自分流×帝京大学
地球カレッジ