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滞仏日記「意志の弱い父ちゃん。誘惑に負けた、情けない最低な男である」 Posted on 2021/08/29 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、ぼくが自分がこんなにも意志が弱いとは思いもよらなかった。
今日は、あまりに情けない一日であった。
ここのところお酒に弱くなり、ま、それはいいのだけど、昼ごはんの時にワインを一杯軽く飲んだ程度で、食後、めっちゃ眠くなって仕事が手につかなくなる。
過去、そんなことはこれまで一度もなかった。
休肝日なんて、ここ数十年、一度もとったことがない。
休肝日? ぼくには謎の言葉だった。
映画の助監督さんで、一緒に飲みに行くと、必ず、飲む前にグレープフルーツジュースを飲んで、内臓を労わる男がいたけど、ぼくは酒がまずくなるので、飲む前にジュースとかスープは絶対に胃にいれたことがない。
でも、アルコール中毒ということにはならない。強いのだ。数値もいい。
昼と夜は必ず飲むし、寝酒をするし、朝も調子がいいと、思わず、冷蔵庫からなんか取り出して、きゅっと飲んでたりする。
とくにワインが好きで、ワインなんか水だと豪語している酒豪で、GOGOだ!
ところが、ここ最近、ランチでワインを、1,2杯飲んだだけで、眠くなり、ベッドで昼寝をするようになった。
これは、体たらくというものである。情けない。



実は一族が九州出身なので、父さんなどは、一日に一本、ウイスキーを飲んじゃう時もあった。
親戚の家に集まると、車座になり、男たちがぐい飲みを回しだす。受け取った者は黙って、飲み干し、自分が口を付けた場所を親指で拭い、隣の人に渡し、その人も同じことをして、一周、二周、三周、とぐるぐる回っていく。
速度も結構早いので、一升瓶とかすぐに空になってしまうのだけど、そういう呑み方を子供の頃から見ていたからか、呑むのが当たり前だった。
酒に飲まれるな、というのが父さんの口癖で、いや、あの人は化け物でした。



さすがに、血だな、と思う。
だから、お酒に負けたことがないし、逆に、飲みすぎると、目が覚めてしまって、酔わなくなるから、始末に悪い。
ところが、そういう自称・酒豪のぼくが、最近、飲むと眠くなり、昼寝はするし、夜も飲んだらもう仕事ができなくなって、気が付くと、寝ているのだから、年ですね・・・。
仕事の質を落としたくないので、ここ最近、昼は控えよう、と決めた。昼は飲まない!
最近ではない、ごめんなさい、正直に言うと、昨日のことである。
で、息子に、
「パパ、そういう守れない約束しない方がいいよ」
と窘められたのだけど、来月、パリでライブイベントがあるので、どうしても体力をつけないとならない。だから、飲まない、と息子に宣言した。
で、結論からいうと、約束したのに、今日のランチ、ちょっと飲んでしまった。←???
白ワインをソース代わりに口に含んだら、とまらなくなり、やはり食後眠くなり、気が付くとベッドでぐーぐー昼寝をしていたのである。やれやれ。



さすがにこんなのじゃ、年齢に負けてしまう、と焦ったぼくは、夕飯の準備をする前に、ジャージに着替え、近所を走ることにした。
田舎でも毎日走っていたので、体調は悪くない。
ここで勢いをつけようと思って、遠くまで走った。
ところが、エッフェル塔の袂まで行った時のことである。
「やあ、ムッシュー」
と声がかかった。
振り返ると、馴染みのギャルソンだった。
実は、離婚する前まで、ぼくはエッフェル塔のたもとに暮らしていたのだ。
「わ、久しぶり。ティボじゃないか」
「ムッシュ、最近、見かけなかったから、めっちゃ、心配していたんですよ。生きてたんですね」
「ああ、実は、いろいろとあって、引っ越して、今は息子と二人暮らし・・・」
「いや、ちょっと、飲んでってくださいよ」
「いや、今、ランニングの途中だから。ほら、財布もないし、スニーカーだし、走ってる途中なんだよ、嬉しいけど」
「水臭い。お金なんかいりませんよ。ご馳走します。よく、ムッシュにご馳走になったから、今、ぼく、ここを買い取って、オーナーなんですよ」
と、ティボが椅子を引いた。テラス席の、椅子、引きやがった。←???



で、何を皆さん、笑っているのであろう? ぼくが初志貫徹できないことがそんなに面白いというのか? 悔しい。
ティボは毎朝、ぼくにカフェオレを出してくれた。最高の笑顔で、最高のサービスをする心優しいギャルソンだった。
「でも、美味しいね。やっぱり、走った後の一杯は最高だ」
「ほら、でしょ? お酒をセーブするとか、何寝ぼけたこと言っちゃだめですよ。そういう年齢じゃないでしょ?」
あはは、と笑ってごまかす父ちゃんであった。
ちょっといいワインをあけてくれたのも、嬉しかった。
出された杯を空にして返すのが九州の男だ、と父さんがいつも言っていた。そういうことだけ、受け継いでしまった。
「もう、いいよ。本当に、有難いけど、歩いて帰れなくなる」
「ムッシュ、そんなこと言わないで。ムッシュとは十年ほど、毎朝、顔を突き合わせた仲じゃないですか。久しぶりの再会なんですから」
あはは、・・・
ということで、ぼくは意志がかなり弱い男なのであった。

つづく。

滞仏日記「意志の弱い父ちゃん。誘惑に負けた、情けない最低な男である」



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