JINSEI STORIES

滞仏日記「二コラのお姉ちゃん、マノンから届いたマドモアゼルな夏の終わり」 Posted on 2021/08/30 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、結局、息子は夏の旅行の予定が全部なくなったようで、何があったのか知らないけど、この一月、ずっと部屋にこもっている。
ぼくと息子は食事の時だけ、食堂で顔を合わせ、生存確認をして、毎日をやり過ごしている。
木曜日から高校が再開するので、受験を控えているし、ほっといても忙しくなるだろうから、今はのんばりしていればいい。
で、ぼくはと言えば、今日も走った。
ランニングウエアを着て、ぼろぼろのハンチングを逆さにかぶり、エッフェル塔の周辺をぐるぐる、だらだらと数周した。
ティボのカフェに立ち寄り、ティボはいなかったけれど、テラス席でコーヒーを飲んで、記念撮影をした。
普段の父ちゃんは結構、こんな感じである。あんまり、近づきたくないような、・・・。ま、でも、しょうがない。

滞仏日記「二コラのお姉ちゃん、マノンから届いたマドモアゼルな夏の終わり」



帰り道、人通りの多い道を疲れたので、ふらふら、歩いていたら、あの、と日本語で声をかけられた。
ぼくはこんなところでこんな時間に、日本の人に声かけられるとは思ってもいないから、油断していた。
振り返ると、すらっと背の高い美人さんである。
慌てて、かっこつけようと思ったのだけど、ランニングパンツ&よれよれTシャツで、なんと腹部には田舎でも使っていたあのウエストポーチ! 
しかも、中に小銭がいっぱい入っていて、動くと、ちゃりんちゃりん、うるさい。
今日は誰にも会わないと思ってるから、ぼろぼろの茶色のスニーカー、ハンチングはさかさまだし、なんとなく、タイの屋台とかで焼きそばを作ってそうな出で立ちだった。
「辻さんですよね?」
黒マスクしているのに、よくわかったなぁ。ぼくも有名になったものだ、と思ってうぬぼれていると、
「佐伯の娘です。小さい頃に何度かお会いしているんですけど、わかります?」
と言い出した。
「あ、マジか」
「おじさん、お元気そうですね」
「おじさん? ・・・」
「あ、すいません。ムッシュ・ツジ」

滞仏日記「二コラのお姉ちゃん、マノンから届いたマドモアゼルな夏の終わり」



あはは。恥ずかしい。普段はびしっと決めてるのに、なんで、こういうタイミングで声をかけられるのか、と悲しくなった。
ランニングパンツは、のびのび素材で、足首がきゅっと狭くなっている奴、なのにスニーカーがサイズがでかくて、ドナルドダックにしか、きっと見えない。
なにせ、ハンチングを逆さにかぶっているので、ドナルド・ツジは決定だ。
「あ、いや、でも、よくわかったね」
「はい、ブログ、読んでますから」
ウエストポーチの中で、不意に携帯が振動しはじめ、何回も着信する音が続いた。その子の視線がぼくの腹部に注がれる。やだ、超かっこ悪すぎる。
「ママといつも読んでるんです。なんか、日本語の勉強になるし。笑えるし」
そういえば、この子、うちの子と同じ年だった。
もう、誰がどう見ても、成人にしか見えない。
フランスは女の子の方が成長が早い気がする。
男子は、とくにうちの息子の周囲は、なんとなく、オタク系ばかりなのに・・・。
「お父さん、お母さん、元気かい?」
「はい、元気です。息子さん、大きくなりましたか?」



この子が屈託なく、明るいことが救いだった。
もう、ぼくは「おじさん」だってことを認めよう。
ぼくの中では、年齢不詳の謎のムッシュ、でいたかったのだけど、17歳の女学生に、それは通用しない・・・。
「辻さん、父と同じ年だとは思えないです」
「え? 佐伯さん、そんな年齢だっけ?」
「はい。昭和34年生まれ」
「ゲッ」
思わず、ゲッと声が飛び出し、背中が内反りになって、顎が付きだし、皮膚が皺だらけになって、眉毛がドバっと、白く飛び出しそうな、そんな気持ちに襲われた。
なんか、自然に腰が曲がって、足腰が弱まった気がする。昭和34年って、言うなよ、と心の中で、毒づいていた。ぼくの人生はもう終わりなのか!!!
「いやぁ、長生きすると面倒くさいばかりだよ」
「でも、辻さんは年齢をごまかさないところが素敵です。毎日を一生懸命生きている感じが、参考になります」
そこかい!!!!! 思わず、心の中で突っ込んでしまった。ごまかしたいけど、ごまかしても、もう、どうにもならない年齢だから、こうなったら、年齢をがんがん呟いて、それを武器にしてやるのだ、と自分に言い聞かせて毎日生きているのである。←???
「辻さん、頑張ってください。応援しています」
「あ、ありがとう。素直に受け止めておくね」
「息子さんをもっと信じてあげてください。私、同世代だから、そして、親が日本人だから、よくわかるんです」
「あ、そうだね。君も、来年受験じゃないの?」
「はい。医療関係に進みたいです。コロナみたいな感染症の時代に少しでも役立てるような医療従事者を目指しています」
ぐ、涙が、・・・やっぱり、涙もろくなってしまった。
その子はお辞儀をして、去っていった。名前を思い出せなくて、ごめんね、会ったのは大昔だから、・・・それだけが心残りであった。
※お嬢さん、この日記、読んだら、佐伯幸太郎に、たまには、呑もう、と伝えておいてくださいね。

ぼくは着信があったことを思い出し、携帯を取り出した。
二コラの姉のマノンちゃんからだった。

滞仏日記「二コラのお姉ちゃん、マノンから届いたマドモアゼルな夏の終わり」



「ムッシュ。夏はいかがお過ごしですか? 二コラがこの前、ムッシュ・ドロール(変なおじさんというあだ名)の家にお泊りをした、と言ってました。いつも、ありがとう。助かります。私は今、最後の夏を友だちたちと海辺で過ごしています。昨日、生まれてはじめて、シャンパンを呑ませてもらいました。15歳になったので、そのお祝いです。フランスは自己責任ですから、・・・。浜辺にテントをはって、女子ばかりでわいわい過ごしています。テントの前の小さな家が友人のジーナのログハウスなんです。お父さんとお母さんがそこから私たちを監視しています。もちろん、シャンパンはお父さんからのギフトです。大人の味でした。嫌いじゃないけど、まだジュースの方が好きな15歳。明日、パリに戻り、2日から新学期です。二コラには、ムッシュが必要なので、また、彼の避難場所になってあげてください。夏の終わりに、マノン」
泣けた。

滞仏日記「二コラのお姉ちゃん、マノンから届いたマドモアゼルな夏の終わり」

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