JINSEI STORIES

滞仏日記「全人類を抱きしめたいと思いながら、ぼくは今日も頑張った」 Posted on 2021/09/05 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、朝、パンを買いに家を出たら、お母さんを失い自殺したいと打ち明けてきた近所の理髪師、シモンとばったり交差点で出会った。
「あ、シモン。大丈夫か?」
「・・・この間はありがとう。なんとか生きてる。それがぼくの人生だからさ」
ジャン・フランソワのカフェの前だったので、
「時間あるなら、ちょっとお茶でもしようよ」
と誘った。
暗い顔のシモン。まだ、立ち直ってはいない。でも、自殺はしてないようだ。
テラス席で向き合い、元気だせよ、と励ました。
「無理だ。ぼくは今、どん底なんだよ」
「いつまでも、どん底ということはない」
シモンが顔を逸らした。その目は、生きることを疑うような、希望を探すような・・・。
そこに、ジャンフランソワがやってきた。
「よー、あれ、二人? 仲良しなの? そうかそうか、いい日だね。ツジは、いつものカフェ・アロンジェな。シモンは?」
シモンが、うなだれ、カフェオレ、と言った。
「シモン、なんか、食べてるのか?」とぼくが聞くと、力なく、首を横にふった。
「ジャン・フランソワ、シモンにクロワッサンも」

滞仏日記「全人類を抱きしめたいと思いながら、ぼくは今日も頑張った」



ぼくは温かいコーヒーを飲みながら、シモンを説得した。
「シモン、ちょっと聞いてくれ」
シモンが顔を上げた。情けない犬のような目をしている・・・
「ぼくはちょっと鬱なんだ。そうは見えないだろ?」
シモンが頷いた。
「でも、ぼくはたぶん、部分的に、心がやんでるんだ。毎晩、悪夢を見るし、寝れない。で、時々、死にたくなる。生きてるのが面倒くさいって考える。家事はいやだ、逃げたいと思う。暗い気分が、毎日ぼくを襲ってくる。で、24時間のうち、1時間くらいは、スーパーネガティブな状態になる。わかるか? でも、なんでか、ぼくは今日も生きてるし、実際に死ぬことはない。で、どこからか、不思議なことに、生きようと思う気もちがふつふつと沸き起こって来る。それが必ず、毎日やって来る。で、24時間のうち、1時間半くらい、その不思議な生命力がぼくをスーパーポジティブにさせてくれる。死にたくなったり、生きたくなったりするんだ。君だけじゃない。平気な顔で生きてる、ほら、見ろよ、あの、ジャン・フランソワだって、彼の心を覗いたら、傷だらけかもしれない。でも、あんな風に笑顔で頑張ってる。いつも笑顔のぼくだって、実は心はボロボロなんだけど、君を励ましている。君はどうだ。お母さんが死んだのは年齢と病気のせいで、ある意味、仕方がない。君が死にたいと毎日うなだれて生きていたら、お母さんも天国で苦しい。君も笑顔にならないといけない。でも、ネガティブでもいいんだ。ネガティブの横にポジティブを置け、と言ってるんだ。そして、少しずつ現実を受け止めていけ。苦しくなったら、ぼくを頼れば話し相手になってやる。緊急事態なら、付き合う。死なれたくないからだ。君はいっつも笑顔だった。その笑顔を取り戻せよ。ぼくだって、苦しいんだ。でも、生きていこう。死にたいと思ってもかまわないから、生きろ。いいな」

滞仏日記「全人類を抱きしめたいと思いながら、ぼくは今日も頑張った」



涙をぬぐいながら、自分の美容院へと向かうシモンを送り出してから、ぼくは近所のスーパーで鶏肉を買い、家に戻って、チキンカツを作った。生きるためには食べなきゃならないからだ。チキンを木槌で叩いて薄く延ばし、塩胡椒をして、小麦粉を叩いて、卵をくぐらせ、パン粉を付けて、揚げ焼きにした。そこに息子がやってきた。
「チキン?」
「ああ。チキンカツにする」
「あ、じゃあ、かつ丼がいいな」
「え、かつ丼? 今から? できないこともないけど、親子カツ丼になる。いいか?」
「どういう意味?」
「カツどんは、豚のカツを卵でとじる。豚が鶏肉になると、卵と鶏肉は親子関係になるから、親子丼なんだけど、その肉がチキンカツになるから、親子カツ丼だ」
息子が、笑った。
「超、面倒くさい話だね。それでいいよ」
「おっけ」
「あ、夜はいらない。学校が始まったから、イヴァンたちと食べてくる。土曜日だし」
キッチンにあった5ユーロ札を、手渡した。カンパだ。
「ありがとう」

滞仏日記「全人類を抱きしめたいと思いながら、ぼくは今日も頑張った」

※ 息子は親子カツ丼に、ぼくは普通のチキンカツプレートに。

滞仏日記「全人類を抱きしめたいと思いながら、ぼくは今日も頑張った」



シモンの泣き顔が頭から離れない。でも、それは彼の人生で、彼は自力で乗り越えないとならない。
息子も受験とか人間関係とか未来とかで悩んでいるようだけどなんとか自力で乗り切っている。
ぼくもだ。笑顔だけど、心を覗いたら、傷だらけの天使なのだ。
そういう人間がぼくは愛おしい。人類を抱きしめたい。
昼食後、ぼくは,自分の中のスーパーポジティブを奮い立たせるために、ランニングに出ることにした。
ジャージ、いつものださいウエストポーチを腹部に巻いて、ハンチングを逆さにかぶって、家から飛び出した。
シモンの美容院の前を通った時、彼が笑顔で、マダムの髪の毛をカットしているのが、見えた。笑っている。
頑張ってるじゃないか、と思った。
通りの反対から見ていたぼくに気付いたシモンがこっちをちらっと見た。
目が合ったけど、ぼくは視線をそらし、全速力で走りだした。それでいいのだ。全人類を抱きしめてみたい!

滞仏日記「全人類を抱きしめたいと思いながら、ぼくは今日も頑張った」



ジャン・フランソワのカフェは、土曜日だからか午後は客がゼロだった。
いつも笑顔のジャン・フランソワがカウンターの中で、暇そうな顔で新聞か雑誌を読んでいた。
客にいつも笑顔で接するジャン・フランソワだが、その心の中は、いろいろな空模様なのだろう。がんばれ、と思った。全人類を抱きしめたい。
ぼくは、大通りへと飛び出した。
すれ違う人たちの顔を1人1人、しっかりと見つめて走った。
笑顔の人もいるし、俯いて歩いている人もいる。外なのに、デルタを恐れて半分くらいの人がマスクをして、歩いている。ぼくはその中を全速力で走った。
みんなを抱きしめたい。全人類を抱きしめてみたい、と思いながら・・・。

滞仏日記「全人類を抱きしめたいと思いながら、ぼくは今日も頑張った」



いつも、2~30分くらいで、苦しくなり、速度が落ちるのだけど、なぜか、今日は調子がいい。どこまでも走っていけそうなくらい、身体が軽かった。
心が重たいのに、身体が心の負担をカバーしようとしてくれている。チーム辻だ。
心臓も、心も、胃袋も、筋肉も、何もかもが、一体になって、ぼくを抱きしめている。
もうすぐ、ライブが控えているし、ぼくは最大限の笑顔で、ステージに立ちたい。だから、ぼくはスーパーポジティブになるのだ。



木漏れ日の中を走った。世界中を抱きしめてやりたい、と思いながら走った。
自分を抱きしめるような感じで、走ってみた。雨があがり、太陽が照り付けてきた。
左岸の中心部のボンマルシェ前を通過した時、ぼくの目に、奇妙なステッカーが飛び込んできた。
「忠犬乗車」という日本語のステッカーだった。ぼくは立ち止まり、そのステッカーを覗き込んだ。
微笑みを誘われた。
よっぽどの日本好きなのだろう。車はトヨタだった。
こりゃあ、いい日だ、と自分に言い聞かせた。雨上がりのパリ左岸で、忠犬乗車ステッカーを貼った車と出会ったのだから・・・。
ぼくは大笑いをし、そこから踵を返すと、家路についた。再び、全速力で走る。
全人類を抱きしめたい、と思いながら、・・・今日も、また、走った。

つづく。

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