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滞仏日記「新しい一ページというものを、人間は毎朝捲っている」 Posted on 2021/10/05 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、パリ市内ツアー&ライブは無事に終わり、最後はエッフェル塔のど真ん前まで行くことが出来、「バラ色の人生」を歌い、かなり予定をオーバーして楽しい時間を過ごすことが出来、終演後は軽く打ち上げをして、家に戻ると、息子の部屋のあかりが灯っていて、不意に素に戻った父ちゃんであった。
重たい楽器を置いて、今日の後始末をしていると、
「お誕生日おめでとう」
と息子が最近聞いた中では一番大きな声で言った。
え? 覚えていたんだ、と思った。いや、もしかしたら、リサとか、ロベルトとか、二コラのご両親とか、ママ友たちから、「忘れちゃだめよ」と連絡が来たのかもしれない。いやいや、そういう勘ぐりはいけない。素直に喜ばないと・・・。
「ありがとう。覚えていてくれて」

滞仏日記「新しい一ページというものを、人間は毎朝捲っている」



「あ、パパ、東京から郵便物が届いているよ」
と息子が言うので、テーブルの上に置いてある郵便物を開けたら、一枚の油絵が入っていた。ぼくは泣きそうになった。
もちろん、差出人はわかっている。
その絵を仕事場の棚の一番目立つところに置いた。
真っ暗な仕事場の電気はあえて付けなかった。
明日から、また、新しい一年がはじまる。そう、自分に言い聞かせた。

滞仏日記「新しい一ページというものを、人間は毎朝捲っている」



真っ暗な部屋だ・・・。
どうしていいのかわからない。着替えて、シャワーを浴びて、ベッドに潜り込むのがベストだろうけど、・・・なんだろう、頭がぐるぐるしている。
いったい、今日はなんだったのだろう、と思いながら一日を振り返った。
実は、一昨日胃腸炎になり、動けなくなった。
天候の問題よりも深刻だった。
今だから言えるけど、ライブを中止するか、スタッフと議論するくらいの状態だった。
どんなに頑張っても起き上がれなかった。
原因がわからない。
腹部を触ると激しい痛みが走るし、そもそも身体がだるく、関節が痛く、熱っぽい。
もしや、コロナに罹ったかと思って、PCR検査をしたけど陰性だった。
昨日は一日寝込んだけれど、前に向かう気持ちしか、ぼくにはなかった。

今朝、起きたら、嘘のように回復していた。
たぶん、天候のことや、たくさんの心労があったのだと思う・・・。
神経性の胃炎みたいなものだったのかもしれない。
今朝は力持ちのスタッフに来てもらい、楽器を全部、運んでもらった。
結局、ツアー&ライブが始まる時には、胃腸炎は収まっていた。
あれは、いったいなんだったのだろう・・・。
もう、若くないということかもしれない。
きっと、そうだ。もう、若くない。



ともかく、全て、無事に終わり、気が付くと胃腸炎は消え去っていた。
多分、心配なことがいっぱいあったのかもしれない。
みんなと別れて、家に戻り、ドアをしめて、鍵をかけて、息子に「お誕生日おめでとう」と言われた瞬間、涙が溢れそうになった。
ぼくは、ぼくなりに、きっと無理をしている。でも、それは人間みんな一緒じゃないか!

今日、オフの時も、カメラがぼくをずっと追いかけていた。
ぼくは多分、どんな時も頑張る人間なのだ。それは常にそうしてないと、ダメな性格なのである。
回遊魚のような・・・
だから、打ち上げの時も、頑張った。でも、それは本物のぼくじゃないな、と思いながら、みんなの前で笑顔を振りまいていた。。。
いつも、そうだ。
息子といる時以外のぼくは、どこか、作られた自分のような気がする・・・。
カメラマンは知り合いだから、ぜんぜん、撮られていてもいやじゃないけど、つい、カメラを意識している。
カメラを向けられながら、素の自分はなかなか出せない。、ま、それが普通だと思う・・・。
もしかすると、こうやって、暗い部屋のベッドで、一人、ぽつんと日記を書いている時の自分の方がよっぽど、自分らしいのかもしれない。
自分で自分の誕生日にイベントをやって、暗い部屋で、明るい画面に文字を打ち込んでいる。
そうだ、62歳のおやじ・・・。
それがぼくだ。

滞仏日記「新しい一ページというものを、人間は毎朝捲っている」



ライブの後、バイオリンのマリオがぼくに言った。
「もの凄く、いい経験をさせてもらった。ありがとう。できれば、また一緒に仕事がしたい」
その時、カメラは回っていなかった。
ぼくは、そういう、真実の声に、感動し、心を奪われる。
自分を偽ってない自分が、ほんの少し、喜んでいるのがわかった。
世界のどこかに、同じような気持ちで生きている人がいるような気がする。
そうだ、きっといる。
人前で、なんとなく、無理をしてしまう人・・・。
そういう人がやたら愛おしい父ちゃんであった。
ぼくは、歯を磨いて、シャワーを浴び、息子に、お休み、と言ってから、眠るのだろう。この日記をアップし、それから、新しい一ページを捲ることになる。

つづく。



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