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滞仏日記「息子の待つパリに戻ると、息子はあまりぼくを待っていなかった」 Posted on 2021/10/16 辻 仁成 作家 パリ

地球カレッジ

某月某日、あまりに眠れるので、びっくりした。
パリにいると、一時間に一度は目が覚め、それを朝まで数回繰り返し、酷い時は眠れなくなり、そもそも、布団に入ってもまともに眠れることもないのだけど、寝ることがこんなに苦痛な人生というのは、誰にもわかってもらえないだろうなぁ・・・。
頭を使う仕事だから仕方がない、と諦めていたけれど、田舎生活が始まって、一番実感しているのは、睡眠時間が増えたことである。
一日、3、4時間睡眠だったのに、田舎に来ると、7時間も8時間もくっすりと眠れるようになった。
しかも、昨夜もそうだけど、爆睡なのである。
目覚めると、目の周辺がパッキーーンと開いて、爽快なのだ。
朝、目が覚めて、コーヒーを淹れて、いつものようにベッドの中ほどに置いて、パソコンでメールや世の中の出来事などを確認しながら、ひと時を過ごした。

滞仏日記「息子の待つパリに戻ると、息子はあまりぼくを待っていなかった」



都会で抱えたストレスをここでゼロにしてから、ぼくはパリに戻るようにしている。
ゼロ・ストレスになったので、午後、パリに戻ることにした。
息子に、「帰るぞ~」とメッセージを打っておいた。
珍しく素早く、「うん」と戻ってきた。
待ち構えているな? 
父ちゃんの料理が恋しいのはわかっている。
息子はぼくのインスタとかチェックしているから、「自分だけ、美味しそうなもの食べてるね、羨ましい」とSMSで小さく抗議されたことがある。
冷凍食品を解凍して一人でそそくさと食べる瞬間とかに、もしかすると、親のありがたみが身に染みている、かもしれない。
でも、青年期なんて、そんなものだ。そうやって、いろいろな味を経験して、世の中を知っていく。
いつもいつも父ちゃんの美味しい料理ばかり食べて育つのはよくない。
えへへ、マジで、そうじゃないですか?

滞仏日記「息子の待つパリに戻ると、息子はあまりぼくを待っていなかった」



昨日の手作り焼き鯖寿司が残っていたので、卵焼きを添えて、お弁当にし、帰りの高速で食べて帰ることにした。
田舎とパリを往復するようになって一年が過ぎたので、高速の運転も苦にならなくなった。ただ、途中で、前を走るトラックから飛んできた小石がフロントガラスに命中し、小さな罅が入った。
パチンと大きな音がしたので、見ると、深い亀裂が出来ている。やばい。
やれやれ、これ、保険でカバーできるだろうか? 
こんなに広い高速道路で、この瞬間、小石がフロントガラスにあたる確率って、いったい、どのくらいだろう。
戻ったら、自動車会社とか保険会社とやり取りをしないとならない。
車は便利だけど、こういう面倒くさいことも連れてくる。無傷で生きていくことはできない。
厄払いだと思え、と自分に言い聞かせて、ぐいと、アクセルを踏み込んだ。



130キロ制限速度なので、128キロ平均でぼくは運転をする。
あっという間に、パリに着いた。
一気に風景が変わる。
そして、パリ市内に入るとぼくを待っているのは、制限速度30キロの世界だ。
排気ガスから市民を守るための法律によって、パリ市内は今までのような速度では走れない。
30キロという速度はドライバーにとってはフロントガラスに蚊が止まるような感じだ。
しかし、違反をするわけにはいかないので、もの凄く神経質になりながら、ハンドルを握りしめた。いきなり、ストレスが戻ってきた。
都会はいろいろなルールでがんじがらめなのである。
きっと、今夜からまた眠れない生活がスタートするのだろう。やれやれ。

滞仏日記「息子の待つパリに戻ると、息子はあまりぼくを待っていなかった」



それでも、戻ると、我が家がぼくを待っていた。息子は綺麗に家を使っていた。
キッチンに行くと、綺麗に食器が片付けられていた。冷凍食品のパッケージがゴミ箱に。思えず、微笑みが誘われた。
おや、シンクに料理をした形跡、使用済みのフライパン!
何か作って食べたようだ。きっと、カルボナーラだな! 

滞仏日記「息子の待つパリに戻ると、息子はあまりぼくを待っていなかった」

夕方、息子が帰ってきた。
「おかえり。どうだった?」
「うん」
「美味しいもの食べたいだろ?」
「うん」
いひひ、しめしめ、親のありがたみを思い知らせてやる。
「何が食べたい? なんでも作ってやるよ」
「あ、じゃあ、久しぶりにメイライの店に行きたいな。冷凍食品に飽きたから」
「メイライ? (父ちゃんじゃなくてか・・・)中華かぁ、あ、いいけど」
「餃子とか、鳥焼きとか、魚とか、色々食べたい」
「あ、うん、おっけ」
しゅん・・・、なんだよ。親のありがたみは、どうしたんだ・・・。



滞仏日記「息子の待つパリに戻ると、息子はあまりぼくを待っていなかった」

ということで、中華を食べに行くことになった。
ぼくらは出来たての、中華料理を挟んで向き合った。
「田舎、どう?」
「うん、いいよ。よく眠れるんだよ」
「へー、あんなに眠れない人なのに」
いつもながら、餃子がおいしかった。中華もいいね・・・。
「中華食べたかったんだ?」
「まぁね、でも、パパ、運転疲れてるだろうから、外で食べたほうがいいかな、と思って・・・」
う、そ、そうだったんだ。うれぴー。
「あの、行きたいな。田舎の家」
「行くか? バカンスだもんな」
「来週から二週間、秋休みだから。あそこ、自分の家だしね。ぼくも匂いをつけないと」
「勉強も捗るよ。受験生にはもってこいだ」
「田舎で、勉強? マジでか」
あはは。ぼくらは笑いあった。
田舎もいいけど、やっぱり、家族のいるパリもいいなぁ。週末は、手塩に掛けて、美味しいものを作ってやろう、と思った。

滞仏日記「息子の待つパリに戻ると、息子はあまりぼくを待っていなかった」



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