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滞仏日記「三四郎を迎えるために。今、ぼくにできる最大限のことを」 Posted on 2022/01/19 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、人口1500人のベルベス村でゆっくりと過ごしていたかったのだけど、不意にパリに戻らないとならなくなった。
というのも、20日の朝に三四郎を引き取りにいかないとならないのだけれど、よく考えたら、どうやって連れて帰るのか、その辺の段取りを、ちゃんと考えていなかったのだ。
尊い命を引き受けるというのに、生き物を受け入れる態勢が整っていなかった。
この大失態は、ぼくに大きな自信の喪失を与えることになる。
というのは、子犬を田舎からパリに連れて帰るというのに、(パリから一時間ちょっと要するところまで迎えに行かないとならない)、どうなるか想像していたらわかるだろうに、ちゃんと準備していなかったことが、何よりもショックだったのだ。
正確には、おやつやキャリーバックなどは買っていたのだけど、パリの家に置き忘れて、仕事に出てしまった自分の無責任さに、衝撃を受けたのである。
そもそも、この世に生まれ出て3か月とか4か月しか経っていない子犬を引き取りに行くというのに、おやつとか、おもちゃとか、おしっこシートとか、がなかった。
そもそもそのために買ったはずの移動用のキャリーバックさえ積み忘れていたのである。
なんたることだ。
ブリーダーさんから手渡された子犬をどうやって、パリまで移送させるのか、細部まできちんと想像できていなかった自分に呆れたのである。
情けない。それで、とりあえず、仕事もだいたい終わったので、一度、態勢を整えるために、急いでパリに帰ることにしたのであーる。

滞仏日記「三四郎を迎えるために。今、ぼくにできる最大限のことを」



万全を期して、迎えないとならない。
三四郎はいきなり我が家にやって来ることになるのだけど、その時、ぼくはどういう状態や気持ちや姿勢や態勢で彼を受け入れればいいのか、まず、何からすればいいのか、わかっていなかった。
抱っこした時、動物臭を感じたのだけど、やっぱり、お風呂に入れることからするべきだろう、とか、身体はあまり洗ってはいけないと犬好き仲間から(一月に一回程度と)聞いていたけど、多分、ブリーダーさんのところでは生まれたばかりだし洗ってないかもしれないので(それもわからない)、まずは身体を洗うべきなのか、しかし、いきなりシャワーとか浴びせたら驚くのじゃないか、住み慣れた家からパリに出てきて突然シャワーじゃ、驚いてトラウマにならないか、ぼくのことを鬼だとか思わないか、などと考えてしまったのだ。
そもそも身体の洗い方がわからないし、それよりも、とりあえず、その日はケージの中に作った仮住まいのクッションの上で寝かせればいいのか、洗ってない身体で寝かせたらクッションが汚れるのじゃないか、いいや、動物なのにそんなことまで気にしていたら散歩などさせられないのじゃないか、パリの歩道とか犬の糞だらけなのに、そこを走らさせていいものか、などなど、経験のないぼくは、次々起こる疑問を前に、やはり、落ち着かなくなってしまったのだった。
どうやって、彼を迎えるべきか、態勢を整えないとならないことに気づいてしまうのだけど、こんなに悩んで犬を飼うことが出来るのか、という本末転倒な悩みまで生まれてしまい、もう、どうしたらいいのか、わからにゃーーーい。
だから、一度、パリに帰り、もう一度その段取りを自分なりにリハーサルしておこうと思ったのであーる。やれやれ・・・。



それにしても、生き物を預かるのがこんなに大変だとは思わなかった。
かわいい、だけじゃ育てられない。
ここは気持ちを引き締めなおさないとならない、と自分に言い聞かせる父ちゃんであった。
シングルファザーとして、今日まで頑張ってきたけれど、その経験ではどうにもならない。とにかく、もう、まもなく三四郎は我が家の敷居を跨ぐことになるのだ。
ぼくは入念な準備をする必要があった。
パリに戻ると、まず、友人のピエールに電話をかけた。
彼はモップという名前の小型犬を飼っている。子犬の基礎的な育て方を彼に相談してみよう・・・。
「やあ、ピエール。どうしてる?」
「いや、コロナだったから、ずっと寝ていた」
「まだ治ってないの?」
「長引いている。結構、俺の周りはみんな長引いてるね。この間、薬局に行ったら、検査をしにきたおばあちゃんが三週間経つけど、陰性にならない、とぶつぶつ言っていた」
「大丈夫か?」
「俺は大丈夫だよ。デルタも罹ったし、今度で二度目だから、慣れてる」
「(慣れてる?)・・・違いは?」
「俺はオミクロンの方がきつかったかな。熱が続いたからね。でも、陽性のうちはどこにも行けないから、困ってる」
「そうか、じゃあ、お大事に」

滞仏日記「三四郎を迎えるために。今、ぼくにできる最大限のことを」



「なんだよ、どうしたの? なんか用事があったから電話くれたんだろ?」
そこで犬のことを話したら、いつものように、クスクスと笑い出したピエールであった。コロナの人があまりに多すぎて、ちょっと麻痺している・・・。
「そうか、ツジー、ついに犬を飼うのか、いいね。犬種は?」
「ミニチュアダックスフンドだよ。でも、不安でね」
ピエールの笑顔が見えた気がした。
「ま、子供だと思えばいい。子供を育てたんだから、心配する必要はない。自然に慣れてくる。あんまり神経質になっちゃだめだ」
「分かった」
「何か手伝えることがあれば、いつでも連絡をくれ」
「それより、早く治せよ」
「オッケー」
ぼくは電話を切った。
コロナ禍のこんな時代に、我が家にやってくる三四郎は、ここでどんな人生を生きることになるのだろう。
幸せにさせてあげたい、と思った。
そうだ。ストレスのない人生を彼に与えたい、とぼくは思うのだった。

つづく。



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