JINSEI STORIES

滞仏日記「フランスで三四郎と生きる人生が待っていたこの不思議について」 Posted on 2022/01/28 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、人の一生というのは誰にもわかるものではない。
昔の自分は、今の自分の人生を全く想像することができなかった。
文化的には影響を多少受けていたが「フランスで暮らしたい」などと思ったことさえなかった。
でも、押し出されるように、ぼくはある日、日本を離れることになった。
ここを目指して生きてきたわけではないのに・・・。
これは本当に偶然の積み重ねで、それを言えば、うちの息子は日本人なのにパリで生まれ、ここフランスで成人を迎えた。
彼こそ、なんでぼくだけ、と長年思って生きてきたはずだが、誰のせいでもない、これを運命というしいかない。
そして、気が付けば、どこからともなく不意に子犬がやって来て、ぼくは迷わず、三四郎、と名付けた。
その子は今日もぼくの腕の中にいて、ぼくをすっかり魅了し、しかも彼はぼくを頼り切って我が家に普通に居座っている。
すくなくとも、ぼくはこの子とどっちかが死ぬまで、共に生きていくことになる。
どういう人生の終わりがぼくを待ち受けているのかわからないけれど、ぼくはじたばたすることもない。
自分ではコントロールできないこの運命というものの流れに身をゆだねて、行けるところまでこの舟を漕いでいく。
名誉も、お金も、とくに今は求めていない。
求めているものがあるとするならば、静かな幸福で、それはこの三四郎と昼寝をする時間だったり、三四郎と川べりを散歩することだったり、三四郎のうんちを「くちゃいくちゃい」とか言いながら片づけている瞬間だったりする。
ただ、犬がこんなに素晴らしい生き物で、犬がぼくに与えてくれる優しさや温もりは、ぼくという人間の心の根本に指す光りそのものでもある、ということを知ることができた。
この子を抱きしめている時のぼくには、相手が存在しない、感謝しかない。
それを何と呼べばいいのか・・・。
あるいはそれを「愛」というのかもしれない。

滞仏日記「フランスで三四郎と生きる人生が待っていたこの不思議について」



人間というのは、わざとではないにしても、押しつけがましい生き物でもあるから、時に、辟易とさせられる。
人間は人間に苦しめられる。それは事実だろう。
でも、仙人ではない限り、人間は、人間社会の中で生きていかないとならない。
人間はある意味で孤独なのだ。隠す必要はない。
笑われるかもしれないが、孤独でいたい人間だって大勢いる。
そういう社会から疎開したい人間にとって、犬は孤独を温める存在にもなりうる。
ぼくは孤独で上等と思って生きているけれど、犬は彼らにしかないある種の能力で、そういう意固地な人間の孤独と思い込む悪い部分を中和させてくれる。
なので、孤独の居心地が不意によくなるのだ。
孤独を隠す必要がないということがますます、わかって来る。
犬には、人間にはない、スピリチュアルな波動があって、これは個人的な見解なので、科学的根拠はゼロなのだけど、波長が合えば、その犬から与えられるエネルギーで、自分の中の悪い影が駆逐されていく、ような気さえする。
わずか4か月しか生きていない三四郎の存在が、62年も生きたぼくの精神のくぐもりを浄化させてくれるのだから、頭が下がる。
そして、この子を思う時にこぼれる笑みには、人間の心の病んだところから湧き上がる相手を打ち負かそうとするアイロニーなど一切含まれておらず、一方で、子犬に導かれるこの無垢な幸福を無抵抗に受け止めてしまう自分が存在していたことを知ることもでき、思わず、感動している始末である。
今日もずっと一緒にいた。

滞仏日記「フランスで三四郎と生きる人生が待っていたこの不思議について」



そして、昨日はすべて床にぶちまけていたカカ(うんち)とピッピ(おしっこ)を見事に全部、おしっこシートのど真ん中に着弾させ、ぼくを驚かせた。
それがなんだ、とか、言わないでいただきたい。
こんなことで感動できる自分にも、ぼくは確かに驚いている。そして、子犬がぼくに与えている幸福というものが、この寂しい生涯の中にまぎれもなく意味を降り注いでいることにぼくは着目したのだ。
なので、今日は、三四郎の目を覗きこんで、
「来てくれて、ありがとう。君のおかげだよ」
と言った。
ぼくの都合で彼を生かすことはできないけれど、ぼくは彼の都合で振り回されることを嬉しく思っている。
今日も、朝の5時に、三四郎は寝室のドアをノックした。
「くうううー-ん」
と鳴いて、ぼくを呼んでいたが、吠えることはなかった。
そして、ぼくは6時半にようやく起きて三四郎の部屋に入ってみると、特大のカカが、犬小屋の前のシートのど真ん中に鎮座していたのである。
「ああ、そうか、君はこれが出来たことをぼくに報告しに来てくれたのか」
ぼくは三四郎を抱き上げ、何度もほおずりをし、
「よくやったね、よくできたね、えらいねー」
と言い続けた。
そういう時の自分をぼくは認めなければならない。
孤独を隠さないで生きることは人間にとって大事なことなのである。

つづく。

滞仏日記「フランスで三四郎と生きる人生が待っていたこの不思議について」

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