JINSEI STORIES

「美食家のパリジャンもまだ修行が足りない。蕎麦の本質を味わって貰いたい」 Posted on 2022/06/05 辻 仁成 作家 パリ

パリの手打ち蕎麦屋といえば、左岸に「円」があり、右岸には「東郷」がある。
ぼくは左岸に住んでいるが、わざわざセーヌ川を渡り、「東郷」まで出かける。
こちらは福井県出身の松井ご夫妻が経営する、福井産のそば粉を輸入しパリで蕎麦にしている気取らない名店なのだ。
フランス人に蕎麦が分かるのか、という疑問は実はいまだにある。
パリでは十年くらい前から日本のラーメンが大ヒット、オペラ地区の日系ラーメン店は軒並み行列で入店出来ない状態が続いている。
行列嫌いなフランス人が並んでも食べたいという日本のラーメン、日本で食べるのとほぼ違わないレベルのものが提供されるまでになった。
その後、30年選手のオペラ地区四国うどんの「国虎屋」の努力の甲斐があって、うどんのブームが訪れ、ごんぶとモチモチのあの四国うどんの専門店が数店舗登場した。
うどんはあの触感が、イタリアンパスタのタリアテッレ、ニョッキなどにも通じるところがあって、フランス人にも理解しやすかったのが勝因の一つだと思うが、蕎麦に関しては、長年、苦戦を強いられてきた。
蕎麦のあの風味はなかなか一般のフランス人にはわからない。
実は日本酒ブームと言われているけれど、一般のフランス人に日本酒はまだまだ理解されてないとぼくは思っている。
彼らは糖度ばかりを意識し、甘い、で片づける。和食の本質は難しいので、食べ合わせ、マリアージュによる日本酒と和食のハーモニーに、ようは慣れておらず、そこがいつも、残念だな、と思わせられる点・・・。

「美食家のパリジャンもまだ修行が足りない。蕎麦の本質を味わって貰いたい」



ここ数年、フランス人のソムリエたちが中心となり、「クラマスター」という本格的な日本酒コンテストをスタートさせている。
これは実に素晴らしい取り組みで、日本酒の素晴らしがやっとフランス人に届き始めたのではないか、という実感が出来てきた。
つまり彼らが媒介者になり、キュレーターのような役割をし、和食文化に親しみのないフランス人をどんどん開眼させている、という次第なのだ。
その中で、やはり蕎麦だけは、つまり、ぼくのように蕎麦命で生きてきた日本人から言わせてもらうと、蕎麦の根本に横たわる日本の美的味わいが仏人の舌と心にまだ届いていないのじゃないか、と思わざるをえない長い不遇の時代があった。
しかし、ここ最近、健康ブームの到来、有機系食材の人気から、そば粉で作る蕎麦への関心が高まって来たのだ。
昨日も大雨だというのに「東郷」は満席であったが、(ぼくがいる間に3回転という客入り)フランス人はほとんどの人が温かい蕎麦を食されていた。
彼らが求めているのは、ダシの利いた蕎麦汁、いわゆるスープなのである。
彼らは、夜は温かいものを食べる習慣があるので、寝る前にスープ、それは実によくわかる。和ダシのブームが到来し、健康食ブームと重なりやっと蕎麦への関心が強まったのは嬉しいのだけど、全員が、「てんぷら蕎麦」なのがやはり気になった。
ざるそばを食べている人はぼくくらいだ。

「美食家のパリジャンもまだ修行が足りない。蕎麦の本質を味わって貰いたい」

※ちなみに、福井のB級グルメで有名なソースカツどん、東郷にもあった。ぼくはごはん無しで、ソースかつだけを注文し(8ユーロで二枚)それは前菜で、頂く。美味い!



店主が、そっと手作りの鯖の「へしこ」を出してくださった。
長年、研究を重ねてやっとひと様に食べて頂けるものが出来ましたので、と出された。ぼくは不意に狂喜乱舞した。
日本に戻ると、へしこを注文し、日本酒とあわせる。これがたぶん、分かるフランス人は少ない。
へしこを出せば、間違いなく、一気に食べてしまうだろう。からすみも、こっちの人はバクっと食べてしまう方が多い。
国が違うと味わい方が違うのだな、と驚いたことがある。
少しずつ、ちびちび、日本酒を舐めながら、静かに口の中で芳醇な味わいを楽しんで貰いたいと思うのだけど、なかなか、それを説明するのが難しい。それは歴史なのだ。
日本とフランスの間に横たわる一万キロが邪魔をする。
店主自慢の「へしこ」は絶品であった。
手作りなだけあって、触感がびっくりするほどまろやか。
口当たりも強すぎず、しかし、奥行きがあり、素晴らしい主張があった。
下に敷かれた大根と一緒に齧る、そして、日本酒を舐める。
その日本酒も福井市で作られた常山(とこやま)酒造の常山(じょうざん)純米超辛口なのである。口が緩む、見事な相性の良さ。それが風土というものなのである。
ところで、ぼくは基本、蕎麦はフラードセルと日本酒を回しがけして、そのまま食べる。
冷たい蕎麦つゆにつけたりはしない。
最後の最後で、つゆにのまれた蕎麦を堪能することもあるけれど、それは〆の瞬間だけ。

「美食家のパリジャンもまだ修行が足りない。蕎麦の本質を味わって貰いたい」



蕎麦の風味を大事にしたい本物の蕎麦の場合、蕎麦はそのまま口にいれるのが良い。つゆは醤油感が強すぎて、口の中が全部醤油の味になるし、蕎麦のやさしさが消される。
その点、日本酒と塩だけで食べると蕎麦本来が持っている風味が立ち上がって来るので、これはおすすめの食べ方である。
とくに、東郷の福井の蕎麦は風味が内側に拭く風のような、出しゃばらない蕎麦なので、華やかなものを纏わせるよりも、素肌のまま味わってあげたい美人さんなのだ。
つるつるとした触感とわずかな水分が蕎麦自体のうまみをくるんでいて、うっとりさせられる。
そのあと、日本酒を含んで、口腔に残った蕎麦の余韻を果てしなく広げよう。ぼくの至福の瞬間なのである。
いつか、フランス人の友人たちに、この食べ方をレクチャーしたいと思っている。わが友、哲学者のアドリアンや写真家のピエールには、きっとわかる、和の心なのだ。

「美食家のパリジャンもまだ修行が足りない。蕎麦の本質を味わって貰いたい」



今日も、読んでくださってありがとう。
日本に戻ったら、蕎麦屋巡り、焼き鳥屋巡りが楽しみな父ちゃんなのである。
さて、お知らせです。
6月13日、父ちゃんの日本公演のチケットの発売日になります。
8月8日、大阪ビルボード、めっちゃ愉しみや~。お好み焼きとか、食べたい。そして、12日は横浜ビルボード、、めっちゃ愉しみや~、シュウマイ弁当食べたい~。
NHK・BSの新作「ボンジュール、辻仁成の春ごはん」の本放送は6月17日に迫ってきました。義和Ⅾ的には大丈夫なのか!?
それから、6月30日はマガジンハウス社から、いよいよ「パリの空の下で、息子とぼくの3000日」が発売に。読み返したけど、泣けました、3000日・・・。長かった、合格おめでとう・・・。
で、もっとも大事なお知らせ。
6月26日に、地球カレッジ、前期エッセイ教室の最終回、総まとめ編です。
エッセイを書くのが大好きな人、文章家を目指しているあなた、ブログをやっている皆さん、ぜひ、ご参加ください。課題もあります。
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