JINSEI STORIES

滞仏日記「命あっての物種。命があるからこそ、出来ることがある。まず生きよ」 Posted on 2022/10/07 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、昨夜から、ピタッと咳が止まった。肺のぜーぜーも消えた。
今朝は、復活の予感に包まれた。
けれども、4週間以上続いた病のせいでか、体力が落ちている。疲れが酷い。
激しい咳は・・・、ぼくから、エネルギーをどんどん奪ってしまった。
どんなに熱血でも、年中、365日熱血で生き続けるのは無理だ。頑張り屋さんも休み休みやらないと身が持たない。
ぼくはいつもプロジェクトの中心にいて、熱血にふるまってきた。
でも、たまには手を抜かないと身が持たない。
夢を追いかけるのは素晴らしいことだが、利用されることもあるので、全部自分でやろうとしてはいけない。
体調の悪い時は、信頼できる人に任せよう。それを理由に休めばいい。
自分らしくない、とか思う必要があるだろうか? 
いつも頑張ってきたのだ。たまには他の人に頼るのもいいじゃないか。
命あっての物種、である。命があるからこそ、出来ることがあるのだ。そうだ、休もう。ぼくは朝、自分にそう言い聞かせて、三四郎と海に出かけた。
なん十キロも続く、浜辺をぼくは三四郎と歩いた。

滞仏日記「命あっての物種。命があるからこそ、出来ることがある。まず生きよ」

滞仏日記「命あっての物種。命があるからこそ、出来ることがある。まず生きよ」

滞仏日記「命あっての物種。命があるからこそ、出来ることがある。まず生きよ」



三四郎のリードを外してやった。波打ち際をぼくらは並んで歩いた。
新鮮な空気を肺の奥深く何度も吸いながら歩いた。
生き返る、とはこのことを言うのだろう。
浜辺を全速力で走り回る三四郎をじっと見つめた。
わずかに、気力がわいてきた。うん、生き物は素晴らしい。
これだ。ぼくが取り戻さないとならないものがそこにある。
光っている。三四郎、君は素晴らしい・・・。

滞仏日記「命あっての物種。命があるからこそ、出来ることがある。まず生きよ」



日本から仕事のメールやラインが次々入ってきた。ぼくが病気でも、容赦なく仕事のメールが届く。
最低限のお返事はしたが、頭が回らないこともあるので、保留の案件もある。
今は、これじゃない、と自分に言い聞かせる。
気力が戻った時に、返事をすればいい。
ネガティブなものはほっとこう。
映画関係は遅々として進まない。今はもう、ほっとく。ぼくは福岡のために必要以上の協力をやってきた。今は休む・・・。
若い人たちよ、あとは任せたよ。
自分が元気になるようなものだけを今は見ておけばいい。光のある方向を向け、とぼくはぼくに言い聞かせた。
熱血の反意語はなんだろう? 冷血ではない。きっと無気力だ。
ぼくが生きる上で一番恐れているのが、無気力と無関心なのだ。
熱血が消える時、この二つの悪魔がぼくに囁きかけてくる。
ぼくは熱血を取り戻さないとならない。さて、どうやって。まずは体力だろう。
帰り道、パン屋に立ち寄り、朝ごはんに、イチジクのタルトを買った。
コーヒーを淹れて、机の上に並べ、写真を撮影した。
光がイチジクを浮き上がらせ、まるで静物画のようだ。じっと眺めた。わずかに気力がわいてきた。
ぼくが取り戻さないとならないものはこれだ、と思った。
美味そうだ。そしていつか、ぼくもこんなイチジクのタルトを作ってみたい、と思った。そうだ、ぼくが取り戻さないとならないものが、ここにあった。
イチジクのタルトよ、君は素晴らしい、いただきます・・・。

滞仏日記「命あっての物種。命があるからこそ、出来ることがある。まず生きよ」

滞仏日記「命あっての物種。命があるからこそ、出来ることがある。まず生きよ」



ベッドの上で復活を待っていたら、ドアをノックする者がいた。
「だれ?」
ぼくは階段を下りた。ドアをあけると、下の階のカイザー髭さんとハウルの魔女さんであった。
「やあ、いたね」
「ああ、ご無沙汰しておりました。お元気ですか?」
「うん。暫くいるのかい? どうだね? お茶でもせんかね」
「あ、今、ぼくは気管支炎でして、ちょっと休んでいます」
「おお、そうか。気管支炎か、それはよくないね。拗らせると厄介だから、ゆっくりと静養したまえ」
ハウルの魔女さんが、後ろから、ぼくを覗いてきた。
「わんちゃん、いるんでしょ? もし、大変なら、一晩、預かりましょうか? ゆっくりしたらいいわよ」
「え、・・・」
ぼくは思わず、泣きそうになった。
ハウルの魔女の一言が嬉しかった。これだ、と思った。
損得のない、こういう瞬間に、誰かから思いもよらぬやさしさを手渡された時、ぼくは思い出す。それが人間愛の根本なのだ、ということを。
「ありがとう、サンドリンヌ」
そうだ、ぼくが取り戻さないとならないものが、ここにあった。
ハウルの魔女さん、あなたはなんて心が美しいのだ。今のぼくに必要なものは、こういうやさしさなのである。

滞仏日記「命あっての物種。命があるからこそ、出来ることがある。まず生きよ」

滞仏日記「命あっての物種。命があるからこそ、出来ることがある。まず生きよ」



ぼくは窓の外に沈む、夕陽を見つめながら、今、三四郎を抱きしめている。
三四郎を抱きしめながら、自分に問いかけている。
明日は復活しようじゃないか。
熱血を取り戻し、前進しようじゃないか。
こんな日もある。ぐっすりと眠って、明るい日に備えようじゃないか。

つづく。

今日も読んでくれてありがとう。
病から復活しつつある中で、ぼくはこんなことを一日考えていました。これから夕食の準備をし、夕陽でも眺めながら、食事をします。そして、暗くなる前に、三四郎を連れて、浜辺を歩きます。どんなにきつくても、三四郎を思いっきり走らせてやりたいからです。

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滞仏日記「命あっての物種。命があるからこそ、出来ることがある。まず生きよ」



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