某月某日、福岡に滞在している間、一番ぼくの心を悩ませたのは、母さんのフランス熱、なのであった。
「おにいちゃん、わたしは生きているあいだに、一度はあんたらが暮らすフランスに行ってみたかとよ」
を、二度、三度、耳打ちされたのであーる。
「十斗とお前とカフェ～でクロワッサンを食べたかとよ。カフェオレを飲みたいとよ」
ぼくは弟の恒久と目が合った。
この日記にも書いた通り、先日、母さんは突然「一分前の記憶がない」と言い出した。「軽度ですけれど、認知症の兆候がではじめています」とお医者さんに言われたのだ。
ということで、この短い福岡滞在のあいだ、母さんのいないタイミングを見計らって、弟と介護士さんを探す話を進めていたのである。
いつまでも弟がべったり母さんの面倒をみることもできない。済生会病院の大倉先生にも、考えはじめた方がいいでしょう、とうっすら釘をさされていた。
そこへ来ての、
「フランスへ行きたか～」
である。
弟もぼくも、ギク。
「さんぜりぜぇ大通りを一度は歩いてみたか～。おーさんぜりぜぇ～」
さんぜりぜぇ～が時々、さいぜりあ～、に聞こえた。

※　母さんはここをこんな風に、父ちゃんと、歩きたいのであーる。しかし、ここは撮影ポイントだけれども、車がびゅんびゅん、実に危ない場所なのであーる。

「おにいちゃんのライブが決まったら、いよいよ、わたしもさんぜりぜぇ～デビューやね」
「ギク」
来日前、パリのスタッフの皆さんにも相談をした。
仮弟子の長谷っち含め、全員、やめた方が無難、と言い切るのである。
理由は「もしものことがあったら、取返しが尽きません」とのことだった。
「先生、お母さまにパリを見せたいお気持ちはわかります。けれども、先生はライブに集中をしないとならないですし、弟さんは仏語話せないんですよね～。目を離したすきに、迷子になったら、それこそライブどころではなくなります」
確かにその通りであった。
来年は８８歳になる、え？　おおお、米寿か！　
ますます、行きたい、と言うに決まっている。
「米寿の記念にフランスに連れて行ってくれんね。さんぜりぜぇ～」
「８７歳で杖無し」が自慢の母さんなのだった。
認知症の毛があっても、どんどん歩くことが出来る。それはいいことだけど、認知症の上に歩けると、どこかへ行ってしまいそうで、怖い・・・。
パリの観光地は今、観光客狙いのひったくりが横行している。
恒ちゃんも６０歳になったし、これは、なかなかの難問なのであった。
やれやれ。困った、どうしよ～。

「母さん」
ぼくは最終日に言った。
「いいにくいことだけど、母さんは今、認知症の初期段階なんだって。異国で記憶を失ったらそれはとっても恐ろしいことになる」
母さんは遠くを見ている。
「それからね、そろそろ介護士さんにも来てもらおうと思っている。少しずつ慣れていくのがいい。最初は週二回とか、週三回、からはじめたらどうだろう」
母さんは、うつろな目をしはじめる。
「ぼくらは母さんに長生きしてもらいたいんだよ。わかるかい。そのためには母さんの生活を支える協力者が必要なんだ。恒ちゃんももう若くない。ずっと母さんにつきっきりというわけにはいかないんだよ。いいよね？　わかるよね？」
母さんは顎を突き出している。口をへの字に食いしばっている。
「母さん」
それから母さんはお茶を飲んだ。目が赤かった。
ぼくらの提案に、イエス、とも、ノン、とも言わなかった。
ぼくら兄弟にはずっと自慢の母さんであった。しかし、これは人間の歩く道であり、順番なのである。
「パリに行きたかった」
ぽつんとそう呟くのだった。
「兄貴」
「・・・うん」
ぼくらはもう少し悩むことにした。でも、こればっかりは、どうしようもないことでもあった。
おーさんぜりぜぇ～、ぱらっぱらっぱ・・・。
舶来好きな母さんを歩かせてあげたかった。

つづく。

今日も読んでくれてありがとうございます。
親孝行をしなきゃ、と思う時に、こういうことになるのです。もっと早くフランスに連れてきてあげたかった。でも、まだ、わからないよね、と弟と話し合っています。生きているあいだに、少しでも、幸せであってほしい、と思う、ぼくら兄弟でした。それはいったい、どういうことなのだろう・・・。

はい、今日も、お知らせです。
「ボンジュール！辻仁成のパリごはん〜 2022 夏〜」の再放送が決まりました。まだ観ていないみなさん、ぜひ！！！
１１月３日、文化の日の夕方の放送になります。
●再放送「ボンジュール！辻仁成のパリごはん〜 2022 夏〜」
【BSP】 １１月３日（木）　午後４時３５分~〜５時３４分