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滞日日記「手術に約5時間かかり、最悪のことも考えた父ちゃん。閲覧注意」 Posted on 2022/11/15 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、手術は怖くないと思いながら、国際福祉医療大学三田病院の門を潜った。
快晴で、立派な病院で、これは楽勝しかない、と勝手に思い込んで大股で受付まで突進した(その時は)元気な父ちゃんであった。
受付を済ませ、3階の口腔外科待合室へ。待つこと、10分、名前を呼ばれ中に入った。荷物を置き、クリニックにあるのと同じような歯医者さんの椅子「ユニット」に座った。
ベッドじゃないし、全身麻酔じゃないな、と思ってまたしても安心。
問診の先生がきて、アレルギーがあるかなどなど聞かれた。今日から映画はダビングと呼ばれる整音作業が始まっているので、元気ならスタジオに行くつもりだった。
そこで問診の先生に「どのくらいの時間ですかね」と訊いてみた。平均して、だいたい3、40分、長くて一時間くらいでしょうか、と言われた。
え?なんだ、楽勝じゃん、と思って、めっちゃ安堵した父ちゃん。急にリラッ~クス。
そこに今日の主治医の矢郷医師がやってきた。年齢はぼくよりは当然下ではあるが、経験豊富そうな物腰の柔らかい女医さんである。
レントゲン写真を指さしながら、細かい状況を説明してくれた。同意書にもサインをした。
「辻さん、この親知らずですが、虫歯の進行状況でお時間が長引くことも考えられます。とにかく、切開して中の様子をみないと最終判断はできません。いいですね、はい。では、まず、麻酔から」
「よろしくお願いします」
こんな感じで、スマートにオペが始まった。
椅子が倒され、ぼくの目元にガーゼ? それから口元が覗くゴム製のカバー?を上から被せられた。平坦な宇宙服みたいな、ぼくの口だけが外に露出している感じ・・・。
部分麻酔で、七か所くらい、打たれたと記憶している。すぐに効いてきた。
助手さんらが、ぼくの口を開くために、何か器具で唇の左端を引っ張った。これが、ちょっと痛かった。唇が裂けるかもしれない、と言われていたことを思い出した。
でも、一時間くらいなら、持つかな、とぼくは高をくくっていたのだ。
「15番メスをとって」
と先生が言った。メス、という言葉でちょっとドキッとした。切開がはじまる。
この時、ぼくはまだ、自分の身に起こるとんでもないことに、気づくよしもなかった。

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「中がボロボロだわ」
と先生が何気なく言ったのが、悪夢の始まりであった。
中がボロボロだとどうなるんですか? と質問したいけど、口裂け状態になっているので、何も言えない。
「これはかなりひどいなぁ」
そこで先生はチェーンソーのような音がする機械、たぶん、タービンと呼ばれるものじゃないかと思うのだけど、それで虫歯を削りはじめた。
虫歯は壊れやすいので、それをとらないと、抜歯は難しいのであろう。(あくまでこれはぼくのその時の想像である)
健康な歯の部分に、何か金具をひっかけて引き抜くのじゃないか・・・、これも想像だけど、目隠しされている患者は音を聞きながら、こういう想像をするしかない。
ちゃあーーん、ちゃーあーん、という不気味なチェンソーの音が口の中、頭骨中編で響き渡りはじめたのだった。
ところが、雲行きが怪しい。引っ張っているようだけど、なかなか、抜けてくれない。
「辻さん、ちょっと顔を横に向けて、そっちを向いてください。ありがとうございます」
物言いは優しいけれど、これがずっと続いた。
「ちょっと横を向いて」
というのはぼくの左側から何かで唇を引っ張られている。イメージとしてはフック船長のあの鉤手で引っ張られている感じ。だから、相当痛いのだけど、その反対側を向いてほしい、という先生のお願いは、さらに、もっと痛い・・・。いでー。
「そっちを向いてくださいね。ありがとうございます」
そっちを向くと、唇が裂けるような激しい痛みに襲われるのだけど、確かに、そうしないと、左上の奥歯の手術はできないよなぁ。理屈ではわかるんですが、いで~。
ちなみに、メスは歯茎も切るのだけど、その横の露出している奥歯の歯肉も切って、全体を開く。それは始まる前に図解で説明してもらってるから、ある程度、想像が出来た。
結構な範囲を切ってめくる、隠れている親知らずを露呈させるわけだ。
すでに手術から一時間以上が経過して、ぼくの首はマヒし、唇は痛みでどうにかなりそうなだった。
どうやっているのかわからないが、チェンソーで虫歯や周囲の骨を削って、歯を抜こうとしているのであろう。
この抜歯が、鉄の棒でその歯を押さえ込まれている感じなのである。
頭を押さえつけられ、ぐい、ぐい、ぐい、と押し付ける鉄棒・・・。
(実際には抜こうとしているのかもしれない。見えないからわからない。鉄の棒で、ぼくの骨をぐいぐいと押している感じ。もしかしたら、ペンチのようなもので引っ張ってるのかなぁ。わからない。それでもぼくの歯はびくともしないのだ。)
これはただ事ではないと思って、ぼくはご先祖様にお願いをした。おじいちゃん、助けて、と心のなかで何度も叫んでいたのである。それくらい、怖かった。

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「辻さん、辻さんの親知らず、顎の骨とか前の歯とかにもくっついていて、まずそこを分離させないとなりません。それから普通の親知らずって、根っこが一本なんですが、辻さんのは3本もあります」
「ヴぉえええ?(ええええ?)」
「はい。それと、かなり大きいんですね。今日、お時間大丈夫ですか?」
一時間くらいした頃、先生が、時間のことをしきりに言い出したので、ぼくは覚悟を決めた。
「というのは、この親知らずの上に上顎洞(じょうがくどう)という骨で出来た空洞があります。鼻の左右に一つずつあるんですが、この親知らず、右側の上顎洞にかなり近いんですね。もしかすると、くっついている可能性もあります。無理に抜歯するとその骨の空間に穴をあけかねない」
「ゾオオバルンガガ(どうなるんですか?)」
「鼻水とかが口の中に流れ落ちてきます」
「ヴぉえええ?(ええええ?) ボジ、バナガバイダラ、ヴォースルンデスガ?(もし、穴があいたらどうするんですか?」
「ほっとけば数か月で自然に塞がるんですが、場合によっては横から穴をあけて再手術ということも」
「ゲヴォゲヴォゲヴォ、ゼンゼーヴォグヴォッグガジュナンデゴバヴィバズ。(先生、ぼくはロック歌手だから、ライブが近いので、それだけは避けたいです)」
「なるほど、それを防ぐために、私たちは慎重にやらないとなりません」
「ヴァー(はい)」
「でも、辻さん、実は、それだけじゃないの、この歯のすぐ近くに大きな血管も流れているんです。そこを再確認するために」
「ヴぉえええ?(ええええ?)」
「もう一度、CTを撮ってもいいでしょうか? 」
クリニックでもレントゲンとCTは撮影しておいたが、それでは分からない部分があるようだった。
チェンソーを相当やった後、周囲の骨との癒着は解消されたはず、それでも、なかなか歯が動かないので、先生は、もう少しデータを欲しがっていた。
この時、体力も精神も、もはや、限界に達していたのである。助けて~。

滞日日記「手術に約5時間かかり、最悪のことも考えた父ちゃん。閲覧注意」



ぼくは歯茎を切開した状態で、一度、一階の放射線科へと向かうことになった。
その時、時計を見たら、14時を過ぎていた。病院についたのが、10時45分だった。
それでも、休憩したったので、助かった。CTマシンの中で一瞬、横になることができた時、ああああ、天国だぁ、と涙が溢れそうになった、・・・。
 (CTを見てびっくり。ぼくの親知らずがびたっと上顎洞の底に付着しているのである。こりゃあ、大変だ。っていうか、これ、上顎洞を壊さないでどうやって剥がすんだろう?)
「そっちを向いてください。ありがとうございます」
そのあとも、永遠、そっちを向いて、が続いた。
頭は右へ、でも、フック船長がぼくの唇を左へ引っ張るので、背中は強張るし、腕は攣りそうになるし、腰から下は「ユニット」椅子にへばりついている状態で、もう、その恰好ったら、たぶん、茹蛸みたいな。つらい・・・。
それでも、親知らずは抜けなかった。
「辻さん。なかなか抜けないので、この歯を分割することにします」
「ヴぉえええ?(ええええ?)」
ぼくは反論が出来ない。痛いですか、と言って、痛いとも言えないから、頷くしかない。先生たちも必死なのだ。こっちも責任を感じるから、痛い、とは言えない。本当に痛い時だけ・・・十回くらいかな・・・ゴゲー(いてー)と飛び上がった。
ンガガガガガガガガガ!
チェンソーではなく、今度は、ドリルのようなもので歯の粉砕がはじまった。
頭骨の中で爆音コンサート!
これにはさすがに、観念をした。ぼくの親知らず、逆に、偉いと思った。そんなに頑張って何十年も一緒に生きてきたのに、すまない、ぼくの親知らず・・・。また泣きそうになった。すると、次の瞬間、助手さんが、
「やりましたね」
と言ったのだ。お、なんかが動いた!
「うん、辻さん、今、大きいのがとれました。あと少し。もうちょっと分割していきます。ンガガガガガガガガ」
あ、失礼。先生が言ったわけじゃない。ドリルがぼくの歯を粉砕したのだった。
「はい、お疲れさまでした」
先生が抜けた歯をぼくに見せてくれた。でかっ。
この先生は相当に名医だと思う。こんなに巨大な親知らず、しかも上顎洞にくっついていたものを、上顎洞を壊さず、抜き取ったのだから・・・。ジュヴォイ(凄い)!じぇんじぇー。
「辻さん、わたしね、医者になってから今日までに、1万人くらいの親知らずを抜いたんですよ」
「ヴァ(はい)」
まだ、口の中に止血用ガーゼが入っている。
「でも、辻さんはそのトップ10に入るくらい、難易度が高かった。かなりのレアケースでした。無事にやり抜くことが出来て、よかったわ」
「ジェンジェ、バリガヴォゴジェヴァジダ」
ぼくは、ふらふらしながら、立ち上がった。助手さんがカメラでぼくの歯を撮影していた。
先生にお礼をいい、下の会計のところの椅子に座り、暫く放心状態になった。病院を出たのは、なんと、17時であった。
熱血父ちゃん、おつかれさまです。

滞日日記「手術に約5時間かかり、最悪のことも考えた父ちゃん。閲覧注意」

※ 終わった直後の状態です。ぼこぼこにされた人でしょ? あはは、今は少しこれに加えて腫れてきています。



つづく。

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今日も読んでくれてありがとうございました。
先生の経験と技術のおかげで、今のところ歯の痛みはありません。ただ、左側が少し腫れています。明日になるともう少し腫れるのかな。今は、喧嘩して殴られたような感じで、唇の周辺に赤痣が出来ています。これ、先生、消えますよね???

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