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滞仏日記「失われた消毒ジェルを探し求めて」 Posted on 2020/03/07 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、いつものように息子を学校に送り出し、行きつけのカフェに顔を出したら、おかしい、いつもと空気が違う。店員のクリストフも店主のフランソワもいつもはぼくのところにわざわざやって来て握手をするのだが、来ない。カウンターの中から、ボンジュール、と言っただけだ。そこに常連のエルベがやって来た。ぼくがすかさず手を差し出したら、何か一瞬、困ったような顔をして、いつものような力強い握手じゃなく、指先だけ掴むような浅い握手をした。ボンジュールと笑顔で言った後、肩を竦めて、
「ツジ、今は握手しない方がいいんだけどね。君が日本人だからじゃないよ。今は大臣なんかが連日アナウンスしている」
と言った。周囲の常連たちも店主も、うんうん、と頷いていた。
持ち歩いていた最後の消毒ジェルを取り出し、エルベに差し出した。みんなが笑った。エルベがそれで消毒をした。いいね、これでお互い安心だな、とクリストフが言った。
昨日まで、そんなこと誰もしていなかったのに、今日はどこへ行っても誰ひとり握手もビズもしていない。街角で、会社員たちがげんこつとげんこつを軽くタッチさせていた。やっぱり新しい挨拶の仕方が流行り始めている。

滞仏日記「失われた消毒ジェルを探し求めて」



今日現在、89ヵ国の国や地域で感染者が出ている。フランスの感染者は600人を越えた。そのうち重症者は39人だ。イタリアは驚くべきことに197人が死亡している。昨日50人弱、今日も50人弱、亡くなった。これはぼくの個人的な素人考えだが、感染者数というのは検査の仕方が国によってぜんぜん違うので、当てにならない気がする。これを分母にしてWHOがはじき出した致死率も正確とは言えなくないだろうか。その中でぼくがいつも気にしているのは死者の数だ。先進国の場合、コロナでなくなった人の数はある程度正確なのじゃないか、と思う。もちろん、何かの事情、隠されているケースだとか、で多少の誤差はあると思うが、イタリアの197人という新型肺炎の死者の数はあっている気がする。医療機関がこういう時期なので、その責任ある立場から、また自分たちにも関わることだから、その死因をまず把握するだろう。日本も、韓国も、フランスも、ドイツも、これらの国々が発表している死亡者数はだいたい正しい気がする。残念ながらぼくは素人なので、医学的根拠は示せない。ただ、日本の数字が少ないのは日本の医学的能力の高さからかもしれない。分母が大きかったとしても、質の高い医療態勢を持っているからかもしれない。日本を心配するあまり、都合よく解釈しているのかもしれないけれど、韓国も6593人からの感染者数に対して死者数は43人である。それと比べ、イタリアの197人という死者数はかなり突出している。この数日、欧州各地で出ている感染者はだいたいイタリアを経由している。なぜ、こんなにイタリアに感染者が多いのかは諸説あるが、誰にも分からない。ただ、イタリアの新聞によると、イタリア政府は新型肺炎のピークを3月の22日前後とみているようだ。

不透明なのはイランとアメリカである。アメリカは医療制度が欧州や日本とは異なるので個人がPCR検査を受けるだけで莫大な費用がかかってしまう。ワシントン州で11人の死者という数は驚くべき数字じゃないだろうか。死因が特定できずにインフルエンザで亡くなったとされていた人が大勢いないか、という疑念もぬぐえない。CDCはもしかしたらWHOよりも問題の本質を理解しているのかもしれないが、大統領選挙を前にして、本当のことが言えないのじゃないか、とつい詮索してしまう。

滞仏日記「失われた消毒ジェルを探し求めて」

※ マスクはゼロ、消毒ジェルもゼロ、でも、バイアグラはあります。と薬局に張り紙。こういうところが…フランス。



午後、ぼくは消毒ジェルを探しにパリ市内の薬局を巡った。さっきカフェで使ったもので最後になる。もう一つは息子が持っている。でも、それだけじゃ足りない。何軒も回ったがどの店員さんも「入荷日はわからない」と首を振った。フランスの場合、マスクは全て国の管理下におかれ、医療機関などへ優先で配られることになっている。消毒ジェルも今日一斉に発売になると情報を得ていたがどこにもなかった。このことを今日、テレビ討論会に出演した右派と左派の論客たちが批判していた。武漢の封鎖が起こった時点で、マスクと消毒ジェルの品薄は予測出来たはずでこれはマクロン政権の失態だ、というのだ。600人を越えた感染者の数字がマクロン政権を不意に揺さぶりだした。昨日とか、一昨日とは違った流れが生まれている。大統領選挙が近いトランプ大統領もコロナの拡大に神経を尖らせていることだろう。奇しくも、ダイアモンド・プリンセスの姉妹船グランド・プリンセスに乗っていた客が下船直後に亡くなられている。そのクルーズ船はサンフランシスコ沖で足止めされている。しかも、先ほど21人が感染と判明した。日本のやり方を批判したCDCはこの状況に対して、米政権にどのようなアドバイスするのであろう。
10年後の世界の人は、このウイルスの正体も含め、その後の世界のことをきっと知っていることだろう。でも、今日現在を生きるぼくたちは、マスクだけじゃなく、目隠しまでされて、見えない恐怖の中を通過しようとしている。国家間の利権は一度捨てて、世界が一つになってこの恐ろしい敵と向かいあう時期なのに。

ところでぼくは消毒ジェルを探せず、家に戻った。家に入るといつものトランクが廊下の突き当りに置いてあるのが目に留まった。ああ! そういえば、東京を離れる朝、薬局に一つだけ残っていた「手ピカジェル」を買ったはずだった…。慌ててあけると、空っぽのトランクの中に手ピカジェルが転がっていた。アライグマ君、最強。

滞仏日記「失われた消毒ジェルを探し求めて」

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