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滞仏日記「街の立役者たちが勢ぞろい、パリ井戸端専門家会議」 Posted on 2020/05/29 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、今日、フィリップ首相がフランス全土からレッドゾーンが消えたことを発表した。これまでフランスはレッドゾーン(感染者の多い地域)とグリーンゾーン(感染者の少ない地域)に分かれていたが、ついにレッドゾーンが消滅。ただし、まだちょっと用心しないとならない、黄色信号地域のパリ周辺(イル・ド・フランス)、海外2県を新たにオレンジゾーンとした。これによって6月2日より、グリーンゾーンのカフェやレストランの営業が再開し、オレンジゾーンではテラス席のみで営業が認められることになった。めでたい。昨夜のテレビで全土のカフェの店主たちが、政府の対応が遅いと怒りを表していたので、とりあえず、一安心という感じとなった。

滞仏日記「街の立役者たちが勢ぞろい、パリ井戸端専門家会議」



その後、ぼくは散歩をするために外出した。すると、家を出てすぐの交差点で辻家御用達の中華レストラン店主のメイライとそのご主人のシンコーご夫妻に会った。二ヶ月ぶりの再会であった。「ようやく、再開できそうですね」と訊くと、「オレンジゾーンのパリはテラス席のみ再開なのよ、通常営業再開の6月22日まで待たなきゃならないわ。うちはテラス席がないからまだしばらく開けられないの」とメイライが残念そうに告げた。メイライの店は広いのだけど、残念なことにテラスがない。テラスがあるのはカフェだ。なるほど、レストランはまだ営業が難しいということになる。「道端にテーブルと椅子を出して営業というわけにはいかないの?」と訊くと「オートリザシオン(認可)が時間かかる」とご主人のシンコーが言った。そこに行きつけのカフェのオーナー、ジャン=フランソワが通りかかった。彼の店はちょうどその交差点の角地にあった。「うちはカフェだけど、ごらんの通り、狭いからテラスはなし、再開は出来ないんだ。22日まで待つしかないよ。でも、22日には再開は出来る」と言った。そして、カリブ海出身のジャン=フランソワは明るい表情で声高にこう付け足したのである。

「ただ、フランスは本当に頑張った。ロックダウンの成果はばっちりと出たんだよ。俺が思うに、感染者はもうほとんどいなくなった。ロックダウン中は、感染者が人にうつす割合が一人に対して4人とか5人だったが、今は0,7人程度まで下がった。普通に社会的距離を保ち、手洗いをしていれば感染しないレベルだよ。これは大成果じゃないか? 首相が言うようにウイルスが消えることはないにしても、感染を恐れて暮らさないでもいいレベルになったってことだ」すると、パン屋の店主ベルさんが通りを渡ってやって来て手を振り上げながら井戸端会議に加わった。「その通りよ、ロックダウンに反対していた若いIT連中がいたけど、そいつらの言うこと聞いていたら、今頃フランスは没落してたわ。後出しじゃんけんみたいにいろいろと騒ぐけど、きっちりとやることをやるしか、ウイルスを抑え込むことは出来なかったってことよ。初志貫徹が大事、何事も。トランプ大統領のアメリカをご覧なさいよ、中途半端にやってると、ああなる。徹底した封じ込めをやるしかなかった。私は政府を評価するわよ。もう、大丈夫。勝ち取ったのよ」この人はパリ市のバケットコンクールで優勝経歴がある、地元の有名人であった。すると、そこにワイン屋のエルベがやって来て、いつものごとく騒ぎ出した。快晴だったし、フィリップ首相のいい発表で空気が和んでいた。「エドワー・フィリップはいいことを言った。これでフランスに活気が戻ってくる。ワインも再び売れるようになる、夏はきっとバカンスに出ることも出来る。モンサンミッシェルはすでにオープンしている。海だ、山だ、ワインだよ」と言って、大声で笑いだした。ロックダウン解除後も、100km圏内のみの移動制限が続いていたが、これも解除となる。国内なら自由に旅行が出来る。バカンス命のフランス人にとっては最高の情報であった。香港出身のメイライが「グリーンゾーンのレストラン、カフェが営業を再開する条件、知っている? テーブルの間隔は1mで従業員のマスク着用が義務。店内移動時は客もマスク着用。1テーブル10人までなのよ。10人、1テーブルって、どんだけ詰め込む気かしらね?」と微笑んだ。



小さなお子さんのいるバーの店主リコがそこに割り込んだ。「学校はどうなる?」パン屋のベルさんが言った。「幼稚園、小学校は全面再開よ。でも、1クラス15人までに制限される。中学校は1年、2年生を優先的に再開。高校は職業高校から再開」ワイン屋のエルベが「公園は開くのか?」と訊くと、ジャン=フランソワが「全土で全ての公園が開くよ。待ちに待った公園の再開だ。お前の店でワインを買って、ピクニックが出来る」へーと一同が喜びの声をあげた。その後、誰かが…、もう、誰が何を言ってるのかわからなかった。そこに人が次々集まって、語っていた。マスクをしている人がほとんど、してない人は、結構離れたところから発言していた。「美術館も再開する。しかしな、マスク着用が義務だ。グリーンゾーンのプール、スポーツジム、劇場、ビーチ、遊園地などの再開。映画館は6月22日より全国一斉再開となる」「映画館、マジですか」と言ったのはぼくだった。それは凄い、ある意味、朗報であった。ある意味、怖いけど。「スポーツとかコンサートは?」とぼくが訊くと、誰かが「人と人が接触をする可能性のあるそういうイベントはまだ難しい。スポーツも柔道とかさ、レスリングとかはダメ。クラブ、ディスコの営業、スタッドや競馬場など大勢が集まる場所でのイベントは引き続き再開できないんだよ」ぼくは嘆息を溢した。

首相は「予防措置」、「テスト」、「隔離」という3つの封じ込めの柱を打ち出した。予防措置を守り、症状が出たらすぐにPCR検査、陽性であれば即座に隔離という流れを徹底させ、早め早めに感染をストップさせていく。PCRの検査体制は全土で整い終えている。フランスは自信を取り戻しつつある状況だと言える。小言を言いながらも、人々は日常が戻ってくることに期待を寄せている。井戸端会議は終始笑顔であった。

夜の20時(と言っても明るい)、いつもの医療従事者への感謝の拍手の時間となった。ぼくは窓をあけて、準備をしていたが、結局、誰も出てこなかった。ぼくは窓辺の手すりに肘を預けて、二か月前のことを思い出していた。目の前の窓が全て開いて、大勢のご近所さんと手を叩いていた頃のことを。でも、今や、集中治療室に入っている人の数も驚くほどに減った。人々は今日の首相の発表を受け、きっともう大丈夫だ、と思ったのに違いない。だからぼくは一人で、小さく拍手をしてから、窓を閉めることにしたのだ。明日はどうするか、それはまた明日考えることにする。 

滞仏日記「街の立役者たちが勢ぞろい、パリ井戸端専門家会議」



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