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滞仏日記「最後まで日本人であったケンゾーさんのこと」 Posted on 2020/10/05 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、訃報の知らせは突然、飛び込んでくる。
だから、予期せぬところで予期せぬことが常に動いていたということになる。
それが人生なのだから、受け止めるしかない。
ケンゾーさんはぼくにとって高田賢三でもKENZOでもなく「ケンゾーさん」だった。
ちょうど20歳年上のケンゾーさんもぼくのことを辻さんと呼んでくれていた。
礼儀のある、物静かな、人の悪口を決して言わないし、そういう話しには参加してこない大きな方であった。
いつも笑顔で、寛容のある人で、よく人間のことを見抜いていた。



はじめてお会いしたのは2001年に「辻仁成の貌」という特集雑誌の対談で、パリのケンゾーさんのご自宅で対談をした時…。19年も前のことである。
パリ中心部を一区画も占有するようなお城のような大豪邸だった。そうだ、家の中に50メートルのプールがあった。
その時、ケンゾーさんは彼の波乱万丈な人生について語ってくれた。
ぼくはケンゾーさんの人生を映画にしてはどうだろう、と知り合いの映画関係者にもちかけられ、ならば、まずはシナリオを書かせてほしい、と連絡をした。
もちろんです、と快諾を頂き、会うようになる。十年ほど前のことだ。
それから、2,3年、時々、会ってはいろいろと話を伺ったのだけど、ある日、話しをしているうちに、突然、今じゃない、と言いだした。
「まだ、ぼくは映画になるようなことはしてないからです、それに全部を話せない」と言った。
そういうところがケンゾーさんのとっても謙虚な生き方だと思った。
だから、その後はもう取材するのをやめて、時々ご飯を食べるような仲になった。
ぼくらを繋いでくれたのは作家のルミ子さんというケンゾーさんの親友で、思えばご飯の時はいつもこの3人が一緒だった。

滞仏日記「最後まで日本人であったケンゾーさんのこと」

不思議なことに、ケンゾーさんが亡くなる本当に数日前、ルミ子さんの誕生日会があって、(この日記でもちょっと書いたけど)、ケンゾーさんとも仲がよかったインテリアデザイナーのエルベさんの家でお祝いをした。
「ケンゾーさんも誘ったのだけど、いつもはすぐに連絡が来るのに、珍しく来ないのよ。最後に話しをした時、体調が悪いと言ってたので、心配…」

滞仏日記「最後まで日本人であったケンゾーさんのこと」



知り合った頃は、ケンゾーさんの青春時代の話しを聞いた。
挑戦の連続のような大変な日々だった、ということだけど、それは本当に、まるで映画のような豪快痛快な人生だった。
これは本当に映画にするべきじゃないか、と思ったほど、運と努力と人間力のオンパレードで、その創作裏話しはとってもロマンティックかつエネルギッシュで引き込まれた。

ケンゾーさんが渡仏したのは、いわゆる戦後の始まりの頃であった。
日本の一人の若者が、世界最大のファッション大国、その首都、パリのモード界で、成功を掴んでいくそのドラマティックな物語…、面白くないわけがない。
「辻さん、映画とか伝記とか興味はあるんですけどね、でも、なんとなく今じゃないんです」
その成功を決してひけらかしたり、自惚れて語るような人じゃなかった。
どこにそのパワーがあるのか、と思うほどに静寂の似合う、ある意味可愛らしい人物でもあった。



そういえば、出会った時にも語っていたけど、その十年後も、その後もずっと言い続けていたことがある。
肉体を鍛えること、若さを捨てないこと、であった。
若い人に出来るだけ囲まれて、その刺激の中で自分の創造性を磨きたい、と言い続けていた。そういうことを仕切りに語っていて、常に、彼は知性ある肉体派だったのだ。
ぼくも若くいたい、と思った。

滞仏日記「最後まで日本人であったケンゾーさんのこと」

ぼくの後悔は80歳の誕生日会に招かれたのに、仕事を優先して、その集まりに参加しなかったこと。
パリの大先輩なのに、なんという不義理だろう、とずっと心に残っていて、苦しい。
だから、ルミ子さんの誕生日会にもしかするとケンゾーさんが顔を出すかもしれない、というささやかな期待もあった。
でも、それは叶わなかった。
多くは語れないけれど、一つだけ、忘れもしないことがある。



ケンゾーさんはおそらく、フランス人が一番知っている日本人の一人であろう。
ほとんどの人がケンゾーさんのことを知っていて、中にはケンゾーさんのことをフランス人だと思っている人も、かなり、いる。
そのことはケンゾーさん本人も語っていた。
「ぼくはフランス人になるつもりはないんだけどね」と…。
しかし、それくらいKENZOというブランドがフランスで浸透しているということでもあった。
実際、今ぼくが住んでいる家のすぐ近くにも新しいKENZOのブティックが完成をして、今、オープンを待っている。
ケンゾーさんはKENZOの権利を世界的なファッションメーカーに売却しているので、彼は自分の名前を自分で使うことが出来なかった。
その辺のことは、とっても繊細なことが含まれており、ここでは書けないけれど、ともかく、フランス人にとってKENZOは自分の国のスターだった。
ぼくの印象だけど、ケンゾーさんは祖国日本でより、本当に世界で有名だった日本人の一人かもしれない。

2011年に起きた東日本大震災の一年後、ケンゾーさんが呼びかけ人になり、トロカデロ広場で追悼集会が開かれた。
ちょうど、震災が起きた時間に追悼集会が行われたので、フランスは早朝だった。雨が降っていたにもかかわらず大勢の人が集まった。
フランス人と日本人が半分半分という感じだったかな…。
その中心にケンゾーさんがいた。

滞仏日記「最後まで日本人であったケンゾーさんのこと」



ケンゾーさんは日本に向かって、震災で犠牲になった方々へ向けて、とっての心の籠った言葉を手向けた。それは彼そのもののような静かな言葉で紡がれていた。
その一月後くらいにぼくはケンゾーさんと食事をした。その時、ケンゾーさんはこう言ったのだ。
「フランス人はみんなぼくのことをフランス人だと思ってるんです。フランス人に認めて貰えるのだから嬉しいけど、でも、ぼくはずっと死ぬまで日本人なんですよ」
今日、フランスのメディアに載った記事には、「日本人デザイナーKENZOがCovid-19の影響で亡くなった」と書かれてあった。

安らかに、眠ってください。ケンゾーさん、ありがとうございました。

滞仏日記「最後まで日本人であったケンゾーさんのこと」

 
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