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滞仏日記「84歳の母さんがぼくに教えてくれた大事なこと」 Posted on 2019/10/11 辻 仁成 作家 パリ

某月某日、コーヒーを飲んでいたら電話がかかって来て、12日は台風が首都圏直撃にするようで、電車も飛行機も運休する可能性が高いので公演を延期することになりそうだ、と言われた。あまりに急な知らせに驚いたが、ファンの方々にもしものことがあったら、と考え、また15号の時の被害のことを思い出し、「わかりました。主催者の判断に委ねます」と言ってから不意に公演延期に向けて周りが慌ただしく動き出した。しかし、時間が経つにつれて、頭では理解出来ても一年間ずっとその日のために練習を積み上げてきていた日々のこと、毎日走ったり、身体を鍛えたり、声出しの練習をしたりしてきたことが頭を過ってしかたなくなった。体調も万全、声の調子もとってもよく、何より日仏ミュージシャンのまとまりも、アレンジも、申し分ない状態だったので、それが出来ないという現実がじわじわと今度は返す波のように押し寄せてきて、ライブを楽しみにしていたくれた方々のことなんかも頭を過り、結局、朝まで眠れなくなった。長く辛い夜になった。

今回、84歳の母さんがコンサートを観劇するため上京することになっていた。高齢なのと視力がよくないので、見せられる時に見せたいと弟と話し合い、上京させるてはずになっていたが、これも延期となった。眠れない夜に、すがるものがなかったので、心を落ち着かせるために、ウイスキーを舐めながら、子供の頃のことを思い出した。母さんがまだうんと若かった頃のことで、いろいろと失敗するぼくに、様々な知恵を授けてくれたのだ。

「ひとなり、人生っちゃ予期せぬことの連続ったい。よかか、落ち込む時は落ちこめ、けれど、すぐに立ち直るための光りを探し出せ。くよくよしていても現実は変わらん。人間だけん、落ち込むのは当たり前ったい。でも、落ち込んだら、ぐずぐずせんと立ち直れ。時間がもったなか。落ち込んだら、立ち直れ。落ち込んだら、立ち直れ。人生はだるまみたいに起き上がらなければいかん。起き上がるのが人間の仕事だ。明日はもう気持ちを切り替えて元気よく次へ向けて起き上がるんだ」

これは何の時に言われたことだっただろう。何かの試合に負けた時だったか、夢が叶わなかった時にかけられた言葉だったが、落ち込んだら立ち直れ、という繰り返しが耳にこびりついている。きっとぼくは何度も落ち込んでいたのだと思う。その都度、母さんが、すぐに立ち直ることの大事さを教えてくれたのだった。そう簡単に人間は立ち直れないものだが、親からそう言われると、子供というのは素直にそういうものか、と従えるから不思議である。ぼくはこの年になっても、まだ母さんの子供なのだから、従うことが出来る。そうだよな、動かせない判断や結果が出たんだからそのことでくよくよしていても始まらない。延期になった5月24日までまた頑張れるんだから、そこへ向けて、さらに磨きのかかったものを作ればいいし上を目指そう、と思えばいいのだ、と自分に言い聞かせていたら、朝がきた。

この台風は前回大きな被害をもたらせた15号とは比較にならないほどに大きな台風のようである。両者の衛星写真を比較するネットの記事を読んだが、十倍くらい大きく見えた。史上最大の台風か、と書かれてあった。日本に上陸するかもしれないこの台風から皆さんが無事でいてくれたらと今のぼくには祈ることしかできない。この自然の脅威から、なんとか身を守ってもらいたい。12日の延期の判断をした主催者は適切だったと思う。これからは台風が通過するまで皆さん、日本にいる全ての人の安全を祈り続けたい。 

滞仏日記「84歳の母さんがぼくに教えてくれた大事なこと」