JINSEI STORIES

「アンデルセンはどんな思いで人魚姫を書いたのだろう」 Posted on 2019/09/26 辻 仁成 作家 パリ

 
アンデルセンといえば、デンマークだ。バルト海にのぞむ、シェラン島とアマー島に位置している。面白いことにここから出ている電車で海を越えて対岸にあるスウェーデンのマルメまで行くことが出来る。このマルメもなかなか可愛い街なのだが、国が違うのでデンマークとの落差は大きい。しかし、デンマークは小さな国でその首都、コペンハーゲンも人口60万人ほど。でも、ここの陰影豊かな風土は何度訪れても心が揺さぶられる。まるで一編の詩のような世界が広がる。
 

「アンデルセンはどんな思いで人魚姫を書いたのだろう」

 
いろんな旅があるけれど、私はあれを食べたい、とか、あれに乗りたい、とか、あれを見たい、というわかり易い目標を一つだけ握りしめて旅に挑むことが多い。アンデルセンが愛した運河を水上バスで巡ることが目的の一つだったりする。そして、旅をしながら、私は息子と多くのことを語り合う。

「人間は生まれ変わるのかな?」と息子が訊いてきた。ストロイエ通りに溢れた人々を眺めながら、
「生まれ変わらないと思うな」と私は夢の無いことを返したりする。そういう何気ない会話でさえも、まるで短編小説のような感じになる。
 

「アンデルセンはどんな思いで人魚姫を書いたのだろう」

 
世界で最初に歩行者天国をやったストロイエ通りにほど近い船着き場から水上バスに乗った。
料金は60クローネ。セーヌ川の遊覧船バトー・ムッシュに似ているけど、どの橋も船がやっと一台ぎりぎり通過できるほどの狭さだからか、水上バスはまるでたがめのような恰好をしている。ガイドが船長の技術を英語、仏語、ドイツ語で自慢する。
 

「アンデルセンはどんな思いで人魚姫を書いたのだろう」

 
低い船の座席に座り、海抜ゼロ地点から美しい岸辺を見上げる。あまりに見慣れない、ある意味贅沢な視界である。

そういえば、二人きりになったばかりの頃、寝付けない息子が質問してきた。
「大きくなったらボクは何になるの?」
「人間になるんだよ」と私は返した。息子は笑いながら眠った。

小さかった息子はあっという間に私の身長を追い越した。大人に近付きつつある息子の横顔を見つめる。その目に映るこの静かな世界は美しい。
「ボク、人間はみんな生まれ変わると思うよ」と不意に息子が口にした。
 



「アンデルセンはどんな思いで人魚姫を書いたのだろう」

 
運河の周囲に可愛らしい家が建っていた。
「あんな家に住む人って。どんな人生をおくるんだろう?」と私が訊くと、
「向こうも同じこと思ってるね」と息子が言った。

狭い運河を出ると水上バスは川ではなく、たぶん巨大な運河に出た。豪華客船とすれ違う。波が打ち寄せ飛沫が上がる。人生の荒波であった。

「今夜はマヨネーズだらけのデンマーク風オープンサンドじゃなくて、ハンバーガーが食べたいな」と息子が遠くの空を見上げながら呟いた。
 

「アンデルセンはどんな思いで人魚姫を書いたのだろう」

 
一時間弱の遊覧が終わる。水上バスは狭い運河へと再び戻った。

「アンデルセンのことなんだけど」と息子が言った。
「ここで生まれてなかったら人魚姫とか書けたかなぁ?」
「どうかな?」
「この運河を毎日見てないと生まれてこないものってあるような気がしない? パパは東京で生まれたからああいう本を書くんでしょ?」と面白いことを言い出した。
その時、光りが乱舞した。

「ほら、見ろ。あそこ!」

私は岸辺の建物の一つの窓を指さした。そこにはマントにシルクハットをかぶった男が立っていた。
息子も息を呑んだ。
アンデルセンは私ら父子に向かって静かに手を振り続けていた。
 

「アンデルセンはどんな思いで人魚姫を書いたのだろう」