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退屈日記「パリジェンヌの愛の戦い、アンヌの場合」 Posted on 2021/08/26 辻 仁成 作家 パリ

フランス人の彼女には旦那さんと子供が三人いた。
ご主人はそれはそれは背が高くなかなかハンサムな男で、ぼくもよく知っているのだけど、モデルから俳優になり、30歳になってからはじめたファッション事業が好調で、現在は40代半ばの共同経営者だ。
彼女はそのハンサムな夫にぞっこんで、でもそのことを顔には出さない。
顔には出さないけど、とにかくいい男でしょ、と自慢をしてくる。
「ムッシュ・ツジ、私が彼を発見したのよ」というのが口癖だった。
二人は結婚二十年のベテラン夫婦。
倦怠期は幾度かあった、と彼女は言った。でも、幸せなのよ、とのろけた。
秘訣はなに、とぼくはある日、質問をした。
すると彼女は微笑み、
 「うまくやることよ」
と言った。
うまくやる、という一言に、ぼくは心臓をわしづかみされたような気分になった。
この二十年、愛する夫に浮気をされないよう、うまくやってきた、彼女のひそかな努力が見えた気がした。



彼女は彼に対して、姉のように振舞うときがある。
彼のブランドのマネージメントを担当する彼女。
仕事の上でもたくみに彼を操っているのが分かる。
そして彼はそういう彼女を信頼している。一見すると、彼が彼女を慕っているように周囲には見える。
じっさい、その通りなのだが、しかしここにはトリックが隠されている。
よく見ると、何かが違う。
彼女にとって彼は、人生最大の自慢・・・。
「この人は私が見つけたんだから」
これが彼女の口癖なのだ。
可愛くて可愛くてしかたがないのである。

愛を失いたくないせいで、彼女は仕事でも家庭でもプライベートでもつねに彼の手綱を引き続けた。
知性があり、頭の回転の速い彼女だからこそ出来たこと。
自慢の夫がわき道へ脱線したり、愚かな誘惑にくっついていかぬように・・・。
けれども、友人のぼくからすると大事なことを見失っていた。
わかりやすく言うと、彼に愛されること。
彼が彼女を心から愛しているのであれば、このような自慢は必要ないのに、とぼくはずっと思っていた。
二十年という年月、監視を、束縛を続けることは不可能だし、ずっと自慢し続けるだけの関係はよくない。
彼女は頭がいいしリーダーシップを持っているので、彼を支配した。
もちろん、彼女がいなかったら、今の彼の成功はない。
でも、手綱を握っているのは常に彼女で、その手綱を緩めたことがない。



歳月は流れ、子供たちも大きくなった。
彼女は、うまくやれる、と信じ続けていた。
ところがある日、彼に若い恋人が出来た。彼女の衝撃は想像に余りある。
けれども、まるで視界の先から現実を葬り去るように、彼女は事実を周囲に隠した。
ところでぼくはこのことを彼の方から聞いたのである。
「ムッシュ・ツジ、なんだかね、支配されるのが苦しかった。僕が彼女を裏切ったのは事実だけど、愛が重かった。これからどうやって新しい関係を作っていくのか、悩んでいるけど、でも、ぼくはもう自分の意思で動いていきたいんだ。新しい人はただそのことをぼくに気づかせたに過ぎない」
彼は家を出て、恋人と暮らし始めた。
彼女は苦しみを乗り越えるために、心を隠し続けた。
苦しそうだな、と思った。
見ていられなかった。
でも、さすがに、簡単に慰める言葉が見つからない。
他人に慰められるだなんて、そもそも、彼女のプライドが許さない。
パリジェンヌ・・・。
なにより、ぼくは彼女に事情を打ち明けられてはいない。
彼女はいつか彼は戻ってくる、とどこかで信じているようなところがある。
でも、ぼくの勘だが、二人は離婚をすることになるだろう。
なぜなら、彼は気が付いてしまった。
自分が支配を望んでいない。ということを・・・。
そして自力で夢を実現できるという自信を持ってしまった、ということだ。

でも、二人は今日も一緒に仕事をしている。
離婚はせずに、外見上は普通に、今までどおりにやっている。
違うのは彼が別のところにアパートを借りて、若い恋人と暮らしている、ということだけだ。
彼女も今はそれを認めている。
こういう話しを日本でしたら、彼が非難の的になるだろう。
でも、ここパリだとそうはならない。
周囲の者たちは口を挟まない。
ぼくも同じで、彼らが離婚をしてもぼくはどちらとも今まで通りに付き合うだろう。



ここで、彼女はもう一度、うまくやろう、としている。
それが痛々しいほどに見えてしまう。
「うまくやるのよ」
彼女の声が耳奥によみがえる。
この試練を二人はどうやってクールに乗り越えるつもりだろう。
もちろん、時間だけが知っていることだ。
最近、彼女は自分のこれまでのやり方を改め、彼への接し方を修復をはじめた。
裏切り者の彼のことを簡単には許さない、という態度を表向き貫きながらも、彼女はひそかに作業を開始した。
まず、彼の浮気を認める。
別居を認める。でも離婚はしない。
彼としてはちょっと気まずい感じになる。泣かれたり、怒鳴られる方がまだましなのだ。
感情をあらわにしたら負けることを彼女は知っている。
彼女はここで、修復の基本姿勢を決めた。夫は、若いだけの女を相手にしてくたくたになり、いつかは自分のもとに戻ってくる、と踏んだ。
それまで動じず、わめき散らさず、自分がその辺の女とは違うことを示すのだ、と・・・。
一方で、子供たちの親としての責任は今までどおり、彼に続けさせる。
仕事も今までどおり。
プライベートと仕事を分離する作戦に出た。
確かに賢い。
あるとき、彼はぼくにこう呟いた。
「ムッシュ・ツジ、ぼくがあいつに何か一つでも勝てるとでも思いますか?」
スーパーウーマンという言葉どおり、彼女はまさに時代の先端を歩く強い女だ。
でも、ぼくには彼女のほんとうの弱さも見える。
ぼくが彼女の兄弟なら、ぎゅっと抱きしめてやりたい、ところである。
弱さを決してみせようとしない、彼女の強さが、切ない・・・。



退屈日記「パリジェンヌの愛の戦い、アンヌの場合」

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