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London Music Life 「寝てもOKのクラシック?! 一夜限りのオールナイト・プロムス」 Posted on 2025/08/19 鈴木 みか 会社員 ロンドン
クラシックコンサートで「途中で寝ても大丈夫です」と言われたら、誰もが驚くに違いない。しかも会場は、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホール。夏に1か月半にわたって繰り広げられる音楽祭、BBC Promsで、そんな遊び心あふれる一夜が実現したのだ。
その名も「From Dark Till Dawn(闇から夜明けまで)」。8月初旬のある夜、夜11時に幕を開け、翌朝7時まで続いた8時間のオールナイト公演だった。オールナイトでの開催は1983年以来、実に42年ぶりのことだという。
開幕前、BBCアナウンサーが「ロンドンで最も安いナイトアウトへようこそ!」と紹介。Proms名物の立ち見席は£8。ワイン一杯分の値段で一晩中クラシックを楽しめるのだから、本当に“最安の夜遊び”だ。
キュレーターを務めたのは、TikTokでも注目を浴びるオルガニスト、アンナ・ラップウッド。SNSで大人気の存在でありながら、その演奏と企画力はロイヤル・アルバート・ホールに認められるほどで、次代を象徴する音楽家だ。
幕開けはアンナ自身によるパイプオルガン演奏。荘厳な響きが会場全体に満ち、まるでオーケストラの音のように重なって広がっていく。次に登場したのは、ノルウェーのアンサンブル Barokksolistene。軽快なリズムにダンスや歌を交えたパフォーマンスで、眠気を完全に吹き飛ばしてくれた。BBC Radio3の生中継も行われており、アナウンサーが「こんばんは、いや…もうおはようございます、ですね」と言い直すたびに、客席には笑い声が響いた。
Promsのアリーナ席はオールスタンディング。だが観客の過ごし方は自由だった。床に座る人、寝そべって聴く人、最前列で立ち続ける人。演奏者が客席に感謝を述べた瞬間、ふと視線の先に寝転ぶ人の姿がある。クラシックの「正装と直立」というイメージを軽やかに裏切る、まさに英国流のユーモアに満ちた光景だった。
午前2時30分、日本人ピアニスト角野隼人(Cateen)が登場した。冒頭のショパンから放たれる力強い音は、夜の眠気を一瞬で吹き飛ばし、観客を再び立ち上がらせた。ラヴェル「ボレロ」を二台のピアノで奏でる挑戦的な試みやRadioheadの「Like Spinning Plates」、会場の熱気は深夜であることを忘れるほど高まった。「初めてのProms出演ですね」と問われ、「そうですね、でもまさか夜中の2時とは」と答え、笑いと拍手を誘った。
続いてはチェロや弦楽合奏、西アフリカのコラ演奏など。音楽は深夜から早朝へ、多彩なプログラムが続いた。そして最後に登場したのがSleeping at Last。アンナが「誰が最後にふさわしいか」と周囲に相談したとき、ホールでたくさんの演奏を見てきたセキュリティスタッフが「彼だ」と答えたという。そんな小さなエピソードに、この実験的な一夜の親しみやすさが凝縮されているように思えた。透き通る歌声が、観客の疲れの中にも不思議と希望が宿るような余韻を残した。
終演は朝7時。会場を出ると、すでに週末のロンドンが目を覚ましていた。ジョギングする人、犬を連れて散歩する人、カフェで朝食をとる人たち。その中で、夜を徹して音楽を聴いた自分たちが同じ街に溶け込んでいく不思議な感覚だった。
体力に負けて途中で帰る人もいれば、最後まで床に寝そべって聴き続けた人もいた。その自由さこそが、クラシックを「堅苦しいもの」と思わせる枠をやさしく解きほぐす。ここには、イギリスらしいウィットが確かにあったような気がする。
サントリーホールの床に座り込んでクラシックを聴く姿を想像してみてほしい。日本ではなかなか考えられないかもしれないが、ロンドンではそれが現実になった。この形式が来年にも引き継がれるかどうかはわからないが、伝統の上に自由な発想を重ねていく、クラシックはそうやって進化を続けるのだと、強く感じさせられる夜だった。
Posted by 鈴木 みか
鈴木 みか
▷記事一覧会社員、元サウンドエンジニア。2017年よりロンドン在住。ライブ音楽が大好きで、インディペンデントミュージシャンやイベントのサポートもしている。