連載小説
連載小説「泡」 第一部「地上」 第1回 Posted on 2025/09/10 辻 仁成 作家 パリ
ウェブサイトではじめて小説を連載することになりました。長編小説のタイトルは「泡」、第一部「地上」です。不定期連載ですが、調子のいい時は連日、書かせてもらいます。それでは、お愉しみください。
連載小説「泡」
第一部「地上」第1回
胸騒ぎというか、様子がおかしいというのか、態度があからさまに違うというべきか、あまりに今のこの状況は苦し過ぎる。これは何かあるな、と思ったので、野本店長には「咳が止まらない」と嘘をついて、バイトをずる休みし、アカリの帰りを待つことにした。ここのところ、何を訊いても返事がおぼつかないし、身体に触れようとすると気のせいか嫌がるし、何より、前はあんなに見つめ合ったというのに、今は、一切、目を合わせようとしない。出会った頃の笑顔はなく、気持ちがここにない泡沫(うたかた)のごとき日の方が多い。こういうことは、はっきりさせとかないといけない、と思った。
付き合いだしたばかりの頃、お互いのキーホルダーにエアタグをつけ合った。野本さんに、「お前ら、なんでそんなバッカなことする?」と問われた時、「私たち愛し合っているから、浮気とか絶対ない自信があるの」とアカリが言い切った。俺のキーホルダーにもエアタグが付いている。でも、この「探す」機能を使ったことは今まで一度もなかった。まさか、こんな関係になるとも思っていなかったので、今、自分が意図せずこの機能に頼っていることに驚きが隠せない。恋が順調だった頃は幸せを確認するための装置だったが、今では不安を増幅させる恐ろしい道具になっていた。でも、これはそもそもアカリからの提案で、彼女も自分がエアタグを持って移動していることは重々承知なはず、だとしたら、彼女の側からしてみれば、愛に嘘はない、ということになる。俺は、むしろ、エアタグを通して、自分の恐れが杞憂であること悟ることも出来た。そうか、俺たちは信頼しあって、あの日、エアタグを交換したんじゃん。じゃあ、心配する必要もない・・・。
© hitonari tsuji
「探す」アイコンをクリックすると、一瞬で、アカリの所在地が分かった。奇妙な鼓動に苛まれる。アカリが今この瞬間、どこら辺を歩いているのか確かめながら、そもそも、どうやってこの問題を切り出すべきか、そして、どこまで彼女の気持ちを辿るべきか、いかにしてこの不安定な状況を解決するか、俺は俺なりに考えることになった。
携帯の画面の中に表示された地図の中心あたりをじりじりと動く青い丸が確認出来る。持ち物を探す欄に「AKARI」という文字が躍る。この機能を使うのは初めてだから、操作方法が今一つよくわからない。しかし、あいつがこの地球上のどこにいるのかだけは一目でわかるし、青い丸が動くということは生存確認もでき、この不安の渦中にいる俺にとっては心強い味方でもあった。動いている時は移動中で、停止している時は仕事中なのかもしれない。同時に、アカリも俺がいつ、どこで何をしているのか、わかっている、ということにならないか。幸せを確認するための装置が、しかし、今、恐ろしいほどの牙を剥いている。
アカリがどこで何をしているのか、俺は今までちゃんと訊ねたことがなかったし、疑ったことさえもなかった。モデルのような仕事だ、と言っていたような気もするので、もしかすると丸が動いている時が撮影中、停止中が待機時かもしれない。いずれにしろ、今、この青い丸は間違いなく俺のアパートに向かって、帰還中なのだ。多少、後ろめたい気持ちもあったが、背に腹は代えられない。差し当たって、アカリが道を踏み外す前に、なんとか食い止めないとならない。
エアタグは高層ビル街の方に行くこともあれば、あまり風紀がいいとは言えない飲食街や、人の出入りの激しい駅周辺を行ったり来たりすることもあって、でも、だいたい、中央駅裏側の繁華街に必ず立ち寄っている。昨日、我慢できず、そこまで行ってみたが、エアタグの限界というのがあって、どのビルか、だいたい特定は出来ても、何階にいるのかまでは、見当がつかなかった。そこは繁華街の中心部にある古いが大きな建物で、ホールに入ると、入居している会社のプレートの壁が目に飛び込んで来る。不動産会社、金融会社、なんのサービスかわからないような企業に至るまで、罅だらけの壁にプレートが無数に張り付いており、到底、そこからアカリが関わる会社の特定は出来そうになかった。そのフロアを出入りする人々にしても、背広を着ている人もいるが、ちょっと怪しい感じの業界人風な連中ばかりなのだ。中には肩で風を切って歩くような輩もどきもおり、そのいちいちに心臓が押し潰されそうになった。もっとも、何をしていようと、アカリがアカリでいてくれるのならそれでいいじゃんか、と俺は俺に言い聞かせてもいた。彼女を信じることが俺自身の救いでもあった。でも、あいつの心が離れそうなのが分かった今、腕を組んで包容力のある男を演じ続けることも難しくなりつつある。
青い丸が動かなくなった。あいつが、もうすぐドアをあける。来た。よし、と俺は気合いをこめた。
「アカリ、なんかあったのかよ。最近、ちょっと変じゃないか?」
「しゅう君、どうしたの? バイトは?」
「調子悪いから、休んだ」
言葉が乱暴になるのを必死でこらえながら靴を脱いでエアタグの入ったバッグをソファに放り投げるアカリの細い後ろ姿をじっと目で追いかけた。アカリは冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、口をつけて飲んだ。窓のカーテンが半分開いており、正面の雑居ビルの屋上に設置された巨大なコーラのネオン看板の赤い光の明滅が、彼女の横顔を縁取っている。落ち着け、と自分に言い聞かせながら、
「でも、なんかあったんじゃないか、なんかさ、つっけんどんだし。怒らないから、言えよ。今まで、なんでも言い合ってきたじゃん」
と訊いてみた。
「アカリ、言えよ」
アカリがゆっくりとこちらを振り返った。薄暗い部屋なのに赤く縁取られたアカリが、どんな顔で、俺を見ているのか、今一つよくわからなかった。
「じゃあ、言う」
その冷淡な一言が俺の心を鷲掴みしたのだった。
次号につづく。
※ 本作品の無断使用は法律で固く禁じられています。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。