連載小説

連載小説「泡」  第一部「地上」第2回 Posted on 2025/09/11 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」

 
第一部「地上」第2回

 
 「じゃあ、言う」 
 といつになく、暗い声でアカリが言い出すものだから、俺は思わず身構えてしまい、動けなくなった。何か言葉を探すようなそんなそぶりを一瞬見せたあと、アカリは、観念したのか、どこか吹っ切れた感じで、あっさりと告げた。
 「出来たみたいなんだよね」
 意味が分からず、しばらく、「出来たみたい」を頭の中で咀嚼する。1,2秒の遅れをとり、俺は恐る恐る訊き返してみた。
 「出来たって、何が?」
 「おなかに」
 それって・・・、と間抜けな言葉が飛び出してしまった。
 「だって、生理ないんだもの」
 やっぱりそういうことか。でも、同時に何か自分の内側から、せりあがって来る不思議な熱の風を感じた。それを遮るようにして、もう一度、訊き返した。
 「不順ってこともあんじゃねーの」
 「でも、ずっと今まで規則正しくあったのに、2か月、もう、2か月も来ないの。こんなこと今までなかった」
 長いまつ毛が、瞬きのたびに大きく揺れ、その奥の黒い瞳にわずかな戸惑い、ためらいとか、不安などの文様を描き出した。だんだん、何が起きているのかを理解し始めた俺だったが、浮気を疑っていたせいもあり、とりあえず、問題がいったん予想外の展開に向かったことで、頭は混乱しつつも、遠くに微かな光のようなものが見えた気もした。
 「判定薬とか試してみたらいいじゃん。リトマス試験紙のようなやつ」
 「試した」
 「試した? リトマス試験紙みたいなやつでか?」
 「そういうのじゃないけれど、最新のやつで、そしたら、そういうこと決定みたい」
 アカリは俺に背を向け、窓際へと向かった。そして、カーテンを少し捲り、雑居ビルの向こう側に聳える摩天楼群の方へと視線を投げかけた。俺は近づき、彼女の肩に手を当てようとしたが、エアタグで追跡したことの後悔もあり、真後ろに佇み、何も出来ないまま、ぼんやりとアカリの後頭部を睨みつけることになる。
 小雨が降っているので、外の世界が奇妙に艶やかで、コーラのネオンが上から下に赤いライトのウエーブを波立たせるものだから、その都度、アカリの横顔に赤い光波が走り抜けた。ちょっと沈黙があった。俺の思考は鈍く、どうするべきか悩んでいた。でも、このままはぐらかすことは出来ない。
 「じゃあ、結婚しようぜ」
 アルバイトの身で、金もなく、人生の目標すら持たない俺が家族を持つことの自信などなかったが、アカリを失いたくない一心で、そんな言葉が力なく飛び出してしまった。けれども、アカリから反応が戻って来ることはなかった。彼女ににじり寄り、赤く瞬く横顔を凝視すると、その目が閉じられているのがわかった。
 「じゃあさ、家族になろう」
 「しゅうちゃん」
目が開いた。

連載小説「泡」  第一部「地上」第2回

 © hitonari tsuji



 「その、今回は、やめとこうかな、と思ってるの」
 俺は驚き、やめる、という言葉の意味を必死で追いかけ、それがどういうことを意味するのか、完全に理解できたわけじゃなかったが、頭の中に、いくつものやめるがせめぎ合って、激しい混乱に見舞われ、
 「なんで?」
 と自分でも驚くほどに大きな声が飛び出してしまった。
 アカリがゆっくりと俺を振り返る。涙が頬を伝い、俺は言葉を失ってしまう。
 「・・・なんでって?」
 「だって、そうじゃん、なんで、だよ。それならそれで、俺、バイトやめて、どこかの正社員になるからさ。前に店主の野本さんも、しゅうさえよければ、バイトじゃなくて、社員にしたいって、言ってくれたし。ラーメン屋だけれど、連日、満席だし、野本さん、ベンツに乗ってるし」
 「しゅう君、そうじゃないよ、違うって」
 「違うって、何が」
 アカリは俺の肩を小突くと、ソファの方へふらふらと歩いて、そこに力なく、倒れ込んだ。身体はものすごく細いが、腰回りはふくよかで、視線の先にアカリの挑発的な臀部が現れた。その美しいヒップラインに欲情じゃなく怒りが湧いて来る。アカリ・・・。
 「ありがとう。しゅう君の気持ち、・・・めっちゃ嬉しい」
 俺はアカリに駆け寄り、足元のあいたスペースに腰を下ろした。背中でも触って落ち着かせようとしたが、伸びた手は、間抜けな感じで、宙に浮いたまま動かなくなった。
 「でもね、そうじゃないの」
 「そうじゃないことないだろ。俺、頑張るよ」
 アカリは片頬をソファにうずめたまま、
 「この子がだれの子か自信ないの」
 と告げた。一瞬、何が起きたのか、わからず、心の中が真空になる。俺はしばらくのあいだ、必死で考えることになった。だれの子か自信がないって、どういうこと? なんで? いったい今この瞬間、何が起きている・・・。
 しばらくして、素粒子が爆発するような激震が脳内を駆け抜け、ここ最近、アカリがよそよそしかった理由、うつろな目をして俺の話をはぐらかしていた理由、一緒に寝ていたのに心そこに在らずな理由が、不意に合致できたのだった。
 「ふざけんな、じゃあ、そいつ呼んで来いよ!」
 俺は怒りに任せて、テーブルの上に置いてあった水のペットボトルを左手で叩き落としてしまった。爆発するような声だったが、それだけ俺は我慢をしてきたことになる。一瞬で、愛が崩壊するのが分かった。なんで、こうなるんだよ!
 「そいつ、呼んで来い、こら。くそ野郎、俺が話しつけてやる。そいつと俺とどっちをとるのか、そこで決めたらいいじゃん」
 俺のことばは、乱暴で、下品で、制御不能であった。短い嘆息が聞こえた後、アカリが身体をひねって、こちらを振り仰ぎ、ゆっくりとソファに座り直した。
 「ぎゃあぎゃあ、騒がないでよ」
 ここまで苦しい思いをしてきて、この結末はさすがに納得出来ない。俺は思わず、アカリの頭を掌で叩いてしまった。バランスを崩したアカリの髪が舞うように乱れる。
 「何すんのよ。叩くことないでしょ!」
 「ごめん。これは、その、我慢してたから、手が出たのは悪かった。でも、俺がそいつと話をつけるから、冷静に話をするから。わかんねーよ、なんでこうなるのか」
 自分がもはや、何を言っているのかわからず、最後の方は言葉が掠れて、涙交じりになっていた。哀れだ、と思うと、涙が止まらなくなる。
 「でも、一人じゃないの」
 アカリが、自分の足元を見つめながら、呟いた。
 

連載小説「泡」  第一部「地上」第2回

 © hitonari tsuji



「その時期、他に、二人と関係してたから」
 完全な真空が世界を膠着させ、俺は瞬きも、呼吸も、息を吐きだすことさえ出来ず、ただ、そこで凝固した。このまま、死んでしまいたかった。思考が停止し、目はまっすぐにアカリを見つめていたが、音は消え失せ、ありとあらゆることから意味が喪失していくのだけが理解できた。そこにはある種のこの世界の終わりが在った。
 俺はアカリの首筋、ぱっくりと割れた胸元、手入れの行き届いた長く美しい髪の毛の一本一本、細くきゃしゃな肩、うなだれる顔の真ん中にある蕾のような唇、そう何度もキスをしあったその口、鼻先を押し付け合った小さな鼻、閉じた瞼、その一つ一つを目で追い、いったい何が起きたのか、今までと何が違うのか、何がどう変化してしまったのか、を確かめようとした。けれども、どんなに目を凝らしても、そこに何の変化も見当たらない。彼女の言葉を額面通りに受け止めるのならば、3人の男と関係を持った、ということになるが、アカリはいつものアカリで、怪我しているわけでも、包帯を巻いているわけでもない。禿ていく時に痛みが無いのと一緒だった。アカリは男たちとのエッチを抜け毛みたいな行為と思っているのか。くそ、やろう! 意識を通り越してどこからか、勝手に、薄汚い言葉が飛び出してくる。くそ。
 「しゅうちゃん、もうごめん」
 「もうごめんじゃねーよ! 俺がこんなに愛しているのに」
 「だから、もういいでしょ。済んだことだから」
 「済んでねーよ。そいつら、一人一人、呼んで来いよ。きちっと話し付けてやるから」
 「話しつけるって殴るってことでしょ? しゅう君、短気だから、殺しかねないから、それは無理だよ」
 俺は床に置いてあった造花の刺さった大きな花瓶を持ち上げ、それを力任せに、壁に投げつけてしまった。ばしゃんと地響きのような音がして、ガラスが砕け散り、それに驚いた黒猫の「灰色」が悲鳴のような甲高い鳴き声を発して、逃げ出してしまった。
 「話せっていうから、正直に話したのに、ひどくない?」
 窓から差し込む赤い光が、粉々に砕けたガラス片に反射をし、家の中をまるで宝石箱のような美しい世界へと変えたのだった。

                              次号につづく。(ちょっと体調悪いですが、予定では、明日配信になります)

  
※ 本作品の無断使用は法律で固く禁じられています。



辻仁成、個展情報。

パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。

1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、8点ほどを出展させてもらいます。

連載小説「泡」  第一部「地上」第2回

辻仁成 Art Gallery
自分流×帝京大学
TSUJI VILLE



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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。