連載小説

連載小説「泡」 第一部「地上」第5回 Posted on 2025/09/14 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第一部「地上」第5回

    「恋人が死んだんです」
   俺は見知らぬ女にそう告げた。すると、それまで微笑みを浮かべていた女は笑うのをやめ、
   「それは何と言えばいいのか、・・・ごめんなさい、言葉が見つからないわ」
   と言った。
   アカリが落ち着きを取り戻した後、しばらく心の在り処を探そうと俺なりに頑張ってはみたが、3人の男と関係を持ったというアカリのその時の姿が頭の中から離れないものだから、呼吸が苦しくなり、彼女を、破壊されつくした部屋に残して、地上に降りることになる。不在のあいだにアカリがいなくなってしまうかもしれない、と考えたが、麻痺した心と頭ではそれ以上考えることは不可能であった。とにかく、アルコールに逃げる以外に方法を思いつかなかった。黒猫の「灰色」だけが、靴を履く俺の元に心配するような感じですり寄ってきたが、そもそも、「灰色」はアカリが連れてきた猫なのだ。じゃあな、と言い残して、ドアを閉めることになる。
   繁華街を当てもなく彷徨った。しばらくして、自分がどこにいるのかわからなくなり、周辺を見渡してみた。遠くに高層ビル群の上限を示す赤いライトが点滅していた。そっちが俺のアパートの方角ということになる。死ぬことが出来なかったアカリはあのままベッドで寝てしまった。一緒にいられるわけなどなかった。謝ることでもないし、俺の責任もあるかもしれないが、踏みにじられた愛のかけらを拾い集めるだけの優しさはもはや残っていなかった。
    今、世界がいつもと違った顔を俺に見せはじめている。昨日までの俺と、今の俺は、全く別人だった。とにかく、酔いたかった。繁華街の隅っこに小さなバーが何軒も寄り添う前時代的な横丁があって、その中の一軒に飛び込むことになる。
   その大柄な女は、少し遅れて入って来て、がらんとしている店なのに、そこが彼女の定位置なのか、迷わず俺の横に陣取り、いきなりシャンパンを一本注文した。話すつもりなどなかったが、いかがですか、とシャンパンをすすめられたので、断る理由もなく、頂いた。何かいいことがあったようで、馴染みのバーマンとお祝いをする感じで、気前よくシャンパンをふるまうような流れ。他に客がいなかったので、その一杯が俺にも回って来たにすぎない。まだ酩酊はしていなかったから、この不幸の中にあって、泡立つシャンパンのきめ細かな美しさが、あまりにも儚く胸に響くのだった。
   「美味しいわよね」
   しっかりとした体躯の、声も結構低くて響く、割と大柄な女はバーマンに向かって、その泡酒を翳しながら、やっぱり、こういう日は泡がいいわね、と続けた。こういう日ね、と俺は心の中でごちた。確かに、泡のような世界にこれ以上ぴったりの酒はない、ということに異論はなかった。バーマンがその泡について蘊蓄を語っていると、酔った数人の会社員が店に雪崩れ込んできた。バーマンがそっちに向かうと、女が、疲れてますね、もう一杯、いかが、とシャンパンを勧めてくれた。
   「頂きます」
   女がボトルに手を伸ばしたのを察知して、バーマンが飛んで来、それを奪い取ると、俺のグラスの中へと注いだ。泡に勢いがあった。グラスの底から、ぶくぶくと立ち上がる無数の泡に、天井から指す一条の灯りが反射し、きらきらと儚い瞬きを残しては消えていった。
   「無口ね」
   俺は一人になりたかったが、その女に罪はないし、それほど不快でもなかった。こんな高級な酒をくれるのだから、気前もいいし、ともかく今はアカリのことを忘れたかったので、この人の優しさに自分を預けるのもいいかもしれない。
   「恋人が死んだんです」

連載小説「泡」 第一部「地上」第5回

© hitonari tsuji



   けれども、なぜだろう、俺の口を突いて出た言葉は、同情をひくような一言であった。
   「それは何と言えばいいのかしら、・・・ごめんなさい、言葉が見つからないわ」
   「いいんです。それは俺にしかわからないこと」
    女は黙ったが、俺がグラスの中の泡を飲み干すと、そこに新しいのを注ぎ直してくれた。たぶん、女とバーマンは一杯ずつしか飲まず、残りはすべて俺の胃袋に消えた。
   「なんで、こんなに優しくしてくれるの」
    すると、女が言葉を探すような感じでこう告げた。
    「縁かな、なんか、そういうもの感じたんでしょうね。わたしは今日、競馬で儲けたの。生まれてはじめて、大金を手に入れたから、でも、そういう日に、あなたに会った」
    あとから入って来た会社員たちはすでに前の店でかなり飲んできたようで、カウンターの角席が大騒ぎになっていた。幸せそうな人たちの意味のない笑い声が狭い店内で弾けた。しかし、こういう連中の中に交じっていると、ちょっとだけ、自分の居場所が確保出来たような気にもなった。
    「事故だったから、もう、諦めるしかないです」
    「でも、そんなことって、わたし、何もしてあげられないわ」
    「もうこれはどうしようもないことで、俺はなんとかこの危機を乗り越えないといけない」
    「そうね、そうですよ」
   「頭の中が混乱していて、どうしていいのか、わからない」
    「そりゃあ、それが普通」
    「テロみたいなものに巻き込まれたと思うしかない」
   女は、たぶん、俺の横顔を見つめていた。いい人なのだろう、同情されていることで、自分が保てるなんて、実にバカげていたが、それでも、すがることが出来る人がいることが有難かった。俺は、じっと、黄金色の泡だけを眺めて、アカリの残像をかき消そうと必死だった。儚く美しい泡じゃないか。それが上昇する途中で消えていく。その消えていく泡を呑むと、頭の中の悲しさが幾分紛れた。ウイスキーで酔い、シャンパンの発泡がその酔いを加速させる。酔えば酔うほど、あの事故がうやむやになっていった。
    「こんな哀れな人間の話、つまらなくない? せっかく競馬で大金、手に入れたってのに、何もこんな底辺男の話に付き合う必要ないでしょ」
  俺は「底辺男」という自分の表現がおかしくなって、吹き出してしまう。でも、大柄な女は笑わなかった。なので、名前を訊いてみることにした。
    「ミルコ」
    「ミルコさん?」
    「はい」
    「なんか、昔から知ってた感じがするな」
    「そうね。そうよ、いいじゃない。その笑顔、素敵よ」
    ちょっとだけ、ささくれ立っていた心に潤いが戻ったような気分になった。女はこの近くのデパートで苦情係を担当しているという。その仕事がどんなに大変かをとくとくと語りだした。クレーマーたちとのやりとりの一部始終は、同時に、心のどこかで自分よりも不幸な人間を探してみたいと思っている今の自分にとって、いい気休めとなった。
    「なんでもかんでもクレームをつけてくる人間というものはいる。そして、必ず、その相手をしないとならない人間もいる、それが社会というもの」
    と女は、微笑みながら力説した。
    「だから、たぶん、あなたの話を聞いてあげるだけの力がわたしにはある」
    「なるほど。大変なお仕事ですね」
    「ストレスばっかり。だから、いつの頃からか、競馬にのめり込むようになって、ついに、今日の万馬券」
    「すごい、万馬券」
    「そうよ。シャンパン、もう一本開けましょうか」

連載小説「泡」 第一部「地上」第5回

© hitonari tsuji



   深夜まで、俺はミルコさんと梯子酒、最後の店を出た時には、ミルコさんに身体を支えて貰わないと歩けないほど、酩酊していた。でも、同時に、久しぶりの人の温もりに涙が溢れそうになった。アカリに復讐してやろうとは思わなかったが、気が付くと、大通りに面したマンションの一室にいた。どういう流れでそうなったのか、分からない。気が付くと、苦情係のマダムの部屋に上がり込んでいた。大柄な人なので、俺はミルコさんの肩に自分の腕を回しながら、靴を脱いだ。そのまま、二人は、もつれあうように、ソファに倒れ込んでしまった。でも、何も出来やしない。そりゃあ、そうだ、出来るわけがない。
    「いいのよ、今は何も考えちゃだめ。これが、どういう成り行きなのか、考えないで。あなたはあなたのままでいい。目が覚めたら、黙って、ここから出て行けばいいわ」
    そういう優しさが、心に響いた。俺はミルコさんの膝枕で、眠りかけていた。ここで、寝ちゃいけない、と思うのだけれど、そこは天国のように居心地が良かった。ミルコさんの太腿の上に自分の後頭部を置いた。微かに、俺を見下ろす女の顔の輪郭が見えた。LEDライトの弱々しいブルーに縁どられた水面に反射する月のごとき顔であった。その彼女の平べったい手が、これまた優しく、俺の胸元を撫でるものだから、心臓の周辺に安心の新芽が芽吹いた。
    「わたしね、時々、自分が生きてないんじゃないかって、思うことがあるの」
    女の声は、どこかお経のような、抑揚のない不思議なリズムを伴って、耳奥で木霊する。
    「だから、教えてほしい。わたし、生きてるよね? 自分がもう死んでしまっているような気がしてならないの。自分は死んでいるのに、生きていると勘違いして、ここにいるような、そういう気がする。わたし、ちゃんとここに存在してるのかしら?」
   不意にミルコの声が、不安に縁どられ、震えはじめたので、俺は、生きていますよ、と戻した。でも、言葉にまとまっていたかどうか、定かではない。生きているよ、と言ったつもりだったが、面白いほど呂律が回っていなかった。しかし、太腿の弾力、てのひらの温もり、心の温かさ、ミルコが確かに生きていることを俺は知っていた。
    「人間って、自分が死んだってこと、分からない人もいるでしょ。きっと、みんな、自分が死んだと気づかないまま、ここに今まで通り生きている人ばっかりな気がしない? そうじゃないって、言いきれる? わたしはだから、ちゃんと生きていることを教えてもらいたいの」 

     次号につづく。(日曜は絵を描くから、一日お休み)

※本作品の無断使用・転載は法律で固く禁じられています。

連載小説「泡」 第一部「地上」第5回

辻仁成、個展情報。

パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。

1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、8点ほどを出展させてもらいます。



自分流×帝京大学
辻仁成 Art Gallery
TSUJI VILLE

posted by 辻 仁成

辻 仁成

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。