連載小説
連載小説「泡」第一部「地上」第6回 Posted on 2025/09/16 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第一部「地上」第6回
女の声は遠ざかったり近寄ってきたり耳の中で反響したり、幻影のように、俺の意識の中で揺れている。きっと、俺は消耗し切って、ものすごく深い微睡の中にいたに違いなかった。ミルコさんの声だけが俺を現実世界に繋ぎとめる細い一本の糸だった。瞼はすっかり閉じ、肉体の神経という神経は切断され、もはや感覚はなく、俺の魂だけがその暗い宇宙空間に浮かんでいるようだった。
「男の人って、女の人よりもずっとデリケートな生き物なんだよね。いつまでも愛した人のこと忘れられないんでしょ。羨ましいは、その人・・・。亡くなられて可哀そうだけれど、こんなにしゅう君に愛されているんだもの」
肉体は麻痺しているのに、心に女の言葉が突き刺さって来る。だから、思わず涙が流れ出てしまった。「まあ、しゅう君、泣いているのね」と女が耳元で囁いた。
「寝ていると思ってたから、余計な事言ってしまった、ごめんなさい。でも、大丈夫よ、もう、泣かないで。これは事故で、運命なんだから、乗り越えていかなきゃ。きっとあなたにいつか幸せが戻って来る。また、昔のように笑顔が戻る日がある」
ミルコさんが俺をぎゅっと抱きしめた。浮遊するような感覚の中で、女の二の腕に俺の額が沈んでいく。優しさに溺れないよう、目を覚まそうとするが、深い底なしの沼に落ちていくような悲しい落下が続いた。女の温もりが、俺にアカリのことを思い出させた。はじめて抱き合った日のこと、その後の寝顔、無邪気な笑み、口づけをする前にキュッと窄めるあのキュートな唇、泣き顔、激しく抱き合った時にだけ見せる歪められた淫らな横顔・・・。失われた思い出が次々と俺の脳裏を過っていった。アカリ、と思わず声に出してしまう。女は俺をさらにぎゅっと抱き寄せた。ミルコさんはアカリじゃない。でも、涙がとまらない。
© hitonari tsuji
「しゅう君、わたしをアカリさんだと思っていいわよ」
女がそんなことを俺の耳元で囁いた。
「…アカリ」
俺がもう一度、そう呟いた直後、俺の唇をたぶんアカリじゃなく、女のそれが塞いできた。アカリとは違うが、弾力のある、包み込むようなキスだった。俺はしかし、記憶の中で、アカリと口づけをしていた。何が起こっているのかわからなかったが、すべてを微睡のせいにして・・・。
「アカリさんのこと、思い出していいのよ」
俺は委ねてしまった。幻影なのに、アカリとしているようだった。
「幸せだった時のことを思い出すのよ。ほら、愛している」
麻痺した肉体の中心で、何かの灯りがともり始めるのがわかった。それは芯を持って、俺の肉体の中心にアカリの輪郭を拵えていった。萎んでいた心や魂が緩み、解放されていくのが分かった。凍っていた血が緩んで流れはじめる。俺は妄想の中でアカリと抱き合った。あの日のアカリと、だ。
「アカリ」
「いい。とても素敵よ」
「アカリ?」
「愛している」
たぶん、幸せな夢の中にいた。そして、幸福を感じながらも、俺の意識は底の見えない奈落へと落ちていくのだった。
記憶にさえも留まらない千夜一夜物語のような夢を見た。それはフラッシュするような記憶のシャッフルを伴い、断片的な人生の走馬灯のごときものだった。
『その人たちと寝た後、凄く後ろめたくなるの。それで、家に戻ると、しゅうちゃんに優しくすることが出来た』
アカリの言葉が、消え行く意識の狭間で揺蕩った。俺はまるで南の島の波打ち際に浮かんでいる流木みたいな存在だった。そして、時間が流れた。果てしない時間の停滞が続き、俺は無限の夢の宇宙を旅してしまう。
次に目を覚ました時、しばらくのあいだ、自分がなぜ見覚えのない家にいるのか、見当がつかなかった。見知らぬベッドの上で上半身を起こし、しばらくのあいだ、周辺を見回しながら、記憶がつながるのを待つことになる。ミルコさんに抱えられながら、彼女のアパートに入ったことを思い出した。吞み過ぎたせいか、脳の奥に鈍い痛みを覚える。
仕方がないので、ベッドから降り、一度、自分の身体を上から下まで確かめることになる。ズボンのポケットに携帯を見つけた。携帯ケースの中にキャッシュカードも刺さったままだった。とりあえず、何か着信がないか、確かめることにした。アカリからのメッセージはなく、かわりにバイト先の店主、野本さんから『体調悪いのか、今日はどうなる?連絡くれ』という短文が入っていた。そうか、バイトを休んでしまったのだ。店主が野本さんで、俺がいわば店長みたいな役割だから、俺がいない店がどういう状態か、だいたいだけれど、想像がつく。入ったばかりの新人はほぼ戦力外だから、野本さんが俺にかわって、店を切り盛りしているはず。でも、こうなった以上、何事もなかったかのような顔で日常に戻ることは出来ない。とにかく、確かめないとならなかった。
閉ざされていたドアを押し開け、L字型にクランクした薄暗い廊下に出た。玄関の横のドアが開いており、眩い光がそこから、溢れていた。どうやら、リビングルームのようだ。カーテンは全開しており、光がガラス窓越しに室内に注ぎ込んでいた。この世界が一望出来る、下界では考えられない高層階の角部屋だった。センスのいい家具に囲まれたゴージャスなリビングは、俺の部屋の何倍もの広さがあり、大理石で出来た楕円形のテーブルの上に、俺あてのメッセージが残されていた。
『仕事に出かけますね、シャワー、好きに使ってください。冷蔵庫にハムとかポテトサラダ、フルーツなんかがあります。なんでも、好きなだけ、食べてください。わたしは夕方に戻りますが、どうぞ、帰りたくなったら、勝手に帰ってください。鍵はドアを閉めれば、自動でかかります。もし、よければ、縁をつなげておきたいので、携帯の電話番号とか残してもらえると、嬉しいな。わたしの番号は090-×××―××××です。登録お願い。もちろん、まだ心が辛いならそのままここにいて、好きなだけ滞在してもいいですよ。戻ったら、何か美味しいものでも食べに行きましょう。すべて、あなたが好きなように決めてくださって大丈夫です。ミルコ』
© hitonari tsuji
俺はミルコの携帯番号をとりあえず登録してから、シャワーを浴びることになる。バスルームの入り口にもメモが貼られてあり、「バスローブはどれでもご自由に使ってください、シャワーの後は冷蔵庫に入っている冷たいビールでもどうぞ」と書かれてあった。言われた通り、シャワーを浴び、バスローブに着替え、よく冷えたビールを飲んだ。やることもなくソファに横たわっていたら、いつの間にか、うとうとしてしまった。その眠気を打ち破るように不意に携帯が鳴ったので、慌てて覗くと、バイト先の野本店主からだった。一瞬、迷ったが、無視した。アカリはどうしているだろう、と次に考えた。仕方ないので、エアタグで所在地を確認することに。家を出ている可能性もあったが、地図の中心にある青い丸は、俺のアパートの所在地の上にあった。アカリは家にいる。俺を待っているのだろうか。それともエアタグだけをそこに残して出て行ったか・・・。俺は地図の中心にある青い丸を睨みつけた。アカリも「探す」機能で俺の居場所がわかるはず。「私たち愛し合っているから、浮気とか絶対ない自信があるの」とアカリが野本さんに言い切った日のことを思い出した。俺は、鼻で笑った。頭が痛い。ばかばかしい、何が愛し合っている、だ。もうどうでもいい。それより、俺はこれから、いったいどうすればいいというのだろう。
「わたしね、時々、自分が生きてないんじゃないかって、思うことがあるの」
何の脈絡もなく、今度は、ミルコさんの言葉が脳裏を掠めた。言われた時はまったく意味が理解できなかったが、つまり、死んだのに、霊魂だけがこの世に残り続けて、普通に生活をおくっている幽霊みたいな存在ということか。もっとも、今の俺だって、もしかしたら、死んでいるように生きている・・・。
冷蔵庫を漁り、ハムとチーズを見つけたので、それを齧った。もう一本ビールをあけ、テレビをつけたり、ベランダに出て景色を眺めたり、アカリのことを考えたりした。それから、俺はミルコさんの家の中を探検することになる。思った以上に広いマンションで、いくつかの小さな部屋に区切られていた。ランニングマシーンなどが設置された、スポーツをするだけの部屋。大きなコンピューターが置かれた仕事部屋。衣服がずらりと並んだウオーキングクローゼット。それから、廊下の一番奥に、広い部屋があり、壁際のラックには絵が並んでいた。中央にイーゼルがあって、制作途中と思われる小ぶりの作品もあった。床には、筆や油絵具のようなものが散乱している。よくは知らないが、好きで絵を描いているというより、それを生業にしている人の作業場のような空間だった。中央のイーゼルに置かれた絵は、どこかヨーロッパの中世を思わせる画風。ラックに並んだどの絵も異なった作風で、よく見ると、サインもバラバラだった。その一つの壁に、ミルコがスーツ姿の男性と腕を組んで映っている写真が飾ってあった。いつの時代に撮影されたものだろう、と思うような、モノクロ写真で、それはまるで昔の映画で使われた小道具のようでもある。額ごと掴んで引き寄せ、その写真の細部を覗き込んでいると、玄関の方でもの音がした。俺は耳を澄ませる。どうやら、施錠が外されるような音。慌てて写真を壁に戻し、その部屋を出ることになる。結局、ここに居残ってしまったことをミルコに知らせるため、急いで玄関へ向かうと、そこに立っていたのはミルコではなく中年の男性であった。男は、俺の存在にちょっと驚いたようなそぶりを見せてから、
「ここで何してる?」
と抑揚のない声音で言った。
虚をつかれた俺は、自分がバスローブを着たままだったことを思い出した。不意に眠気が冷めるような不思議な不安に苛まれつつ、
「ミルコさんに、連れてこられて・・・」
とまぬけな返答を戻すことになった。
次号につづく。(たぶん、明日)
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辻仁成、個展情報。
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パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。
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1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、8点ほどを出展させてもらいます。
posted by 辻 仁成
辻 仁成
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作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。