連載小説
連載小説「泡」第一部「地上」第9回 Posted on 2025/09/19 辻 仁成 作家 パリ
連載小説「泡」
第一部「地上」第9回
地階には照明器具や音響機材が持ち込まれ、見回す限りかなり大規模なイベント会場のように見える。地上からは想像もつかない特設地下クラブが築きあげられていた。駐車場なのに、一台も車は停車しておらず、コンクリートの柱を利用し、暗幕で地下が広範囲に区切られており、中央に詰め込めば数千人規模で収容できるかなり大きなフロアが確保されていた。壁際にイントレを組んで作ったステージ、さらにDJブースも設置され、その左右に大きなスピーカーが添えられ、照明を吊るすためのトラスまでが聳えている。あるいは再開発のためにこの駐車場はまもなく取り壊されるのか、期間限定でクラブとして利用されているに違いなかった。照明といっても平均的に照らすようなものはなく、激しいストロボのような明滅する光のフラッシュや波打つ幻想的な光ウエーブの連続が、まるで蠢く生き物のように地底に息吹を与えていた。
この中で、アカリを探し出すのは至難の業でもあった。携帯の「探す」機能によって、かなり近くまでターゲットに近づくことが出来たが、地下だからか電波は時折乱れ、クラブ内を移動する青い丸を見失うこともしばしば、なかなか遭遇出来ずにいた。
© hitonari tsuji
けれども、腑に落ちないのは、俺がエアタグを持っているのをアカリはよく心得ているはずだし、つまりはアカリも俺の居場所を特定出来るはずで、調べようと思えば瞬時に、俺が今同じ場所にいることくらいわかるはず。何より驚くべきことに、あいつは、エアタグを捨てずに持ち歩いている。なんでだ? もしも、俺から離れたい、俺から逃げたいのなら、エアタグをどぶ川にでも投げ捨てればそれで終わること。あるいは、俺を混乱させるために、エアタグを見知らぬ誰かのバックに放り込んで、俺をかく乱させている可能性もある。
いいや、でも、そうじゃない。あいつは肌身離さずエアタグを持っている。もし、エアタグを廃棄したなら、ゴジラヘッドの真裏の路地に出現することはなかった。エアタグを身に着けていたからこそ、俺はあいつと遭遇出来た。じゃあ、なぜ、こんな状況になっても、エアタグを肌身離さず持っているのであろう。「なんでお前らエアタグを二人で持ち歩いているのか」と野本店主に質問された時、アカリが自慢するように言い返した言葉が、またしても俺の脳裏に蘇った。
『私たち愛し合っているから、浮気とか絶対ない自信があるの』
あれは、嘘じゃなかった? もし、そうだとしたら、あいつは、まだ俺のことを繋ぎ留めたいと思っているのかもしれない。エアタグが、俺たちを繋いでいる? 俺は自分のこの愚かな考えに苦笑せざるを得なかった。あいつは、複数の男と関係を持った、と自供した。お腹にいる子供がだれの子か自信がない、と言った。そして、20歳のアカリはこうも言った。
『最近、ずっと考えてきたことがあって。今は、しゅうちゃんしかいないって、やっと真剣に気が付くことができたし、なんか、言い訳みたいだけど、アカリはアカリなりに迷ってたから、でも、あの時は、どうかしてた。だって、しゅうちゃんって、バカがつくほどまっすぐで、時々、ついていけなくなって、人生って、ほら、選択肢っていうの? 難しい言葉よくわからないけれど、今ならまだ間に合うかもしれないっていう焦りもあって、わたしだって選ぶ権利くらいあるんじゃないかなって思って。で、試しちゃった』
そうだ、確かに、あいつには、俺以外の選択肢もある。俺じゃない人間の方が幸せになる可能性だって否定出来ない。でも、試した結果、俺しかいない、と気が付いた、ということか。しかし、だとしても、俺を裏切ったアカリを簡単に許すことは出来ない。殺す勢いで、あいつを問い詰め、最後はアカリに、死のう、と言わせた。あいつは、そこまで本気だったとは思えないが、あのプレハブ小屋の窓から、身を投げようとしたのは事実で、もしも、本気度が思考を超えていたら、俺は食い止めることさえ出来なかったかもしれない。どこまでが本気で、どこまでがそうじゃないのか、あいつは時として、俺の予想を超える行動に出る。しかし、あいつが悩んだのは事実で、それは、あいつの側になって考えれば、俺にも責任があるのは確かだろう。そういう迷えるタイミングで、ちょっと頼りになるやつと出会った。唆され、たぶらかされ、余計な知恵を付けられ、・・・そういう関係になってしまったのなら・・・。くそ、だからって。
© hitonari tsuji
さっきとは曲調が変わった。ミニマル寄りのグルーブに、ちょっと鋭いパーカッシブなビルドを入れたタイプの音が流れ出し、メインフロアにいる連中が安定した盛り上がりを示しだした。俺だけ踊らず、棒立ちになって、周囲をゆっくりと監視し続ける。光の乱舞の中で、踊りまくる連中の中にアカリがいるような気がする。俺があいつを追いかけたように、あいつも俺が今、ここにいることにたぶん気が付いている。昔から、アカリはよくわからないところがあった。バカだし、気まぐれだし、予期できない行動をとることもしょっちゅうだったが、でも、いつだって真剣だし、不思議な感性の持ち主だった。
音の渦は、ある一定の流れを持って、俺たちを飲み込んでいく。光の乱舞は俺の脳の中心を激しく叩いた。俺はフロアの中を移動しながら、それでも、アカリを探すことしかできなかった。何百人? いや、もしかしたら、千や二千もの人間がいる可能性がある。こいつらは何に熱狂しているのか。アカリはこの群衆の中で、何を考えているのだろう。お前が言う愛がなにか、この泡のような群衆の中で出来ては弾ける泡沫のようなお前の愛がどういうものか、俺は知りたい。
『私たち愛し合っているから、浮気とか絶対ない自信があるの』
アカリが野本に言った言葉だけが、逆に今は俺の救いでもあった。とにかく、アカリを見つけ出すしかない。自分にも責任があるということを冷静に考えることが出来たなら、俺たちにも未来が訪れるかもしれない。少なくとも、アカリが、エアタグを持ち続けている限り、俺の希望はまだ繋がっている、ということか。
俺はステージの方へと向かった。背後にバックドロップがあり、隙間から中を覗くと、折り畳み式の簡易テーブルが並べられ、スタッフらが、談笑していた。しばらく目を凝らして様子を見ていると、ハラグチがそこを横切るのが見えた。ズボンのポケットから煙草を取り出し、口に咥えた。こっそりと俺は追いかける。地上階へと上がる地下階段の手前で、俺は追いつき、奴の腕を引っ張った。振り返った、ハラグチが、
「おお、しゅう。久しぶりだな」
と笑顔で言った。俺は奴が咥えるタバコを奪い取り、じっと睨めつける。ハラグチは察して、どうした、と眉根を寄せながら、訊き返してくる。
「ちょっと聞きたいことがあるんだが、なんで、アカリと関係を持った」
ハラグチが驚いた顔をして、なんやと、と笑った。俺はハラグチの胸倉をつかんで、力任せに、壁に押し付けた。
「アカリがお前と寝たと言った」
「知らねーよ、そんなの。なんで、俺がアカリとそんなことすんだよ。お前の女に手、出すわけねーだろ」
「いつもいろんな女をナンパしてるじゃねーか」
「いや、確かにアカリちゃんはかわいいけれど、お前が怖くて、誰も手をださねー。お前、半グレをボコボコしにしたろ、この界隈じゃ伝説になってるし。俺、一度はその尻ぬぐいもやってやったし。なんで、俺がそんな阿呆な男の女寝とるって、思うんだ、このバカやろう」
俺は手を緩めた。確かに、半グレの小僧らと諍いがあった時、そこの上のやつと和解に奔走してくれたのがハラグチだった。くそ、と俺は毒づいた。
「何があった」
「アカリがどこの馬の骨かわからない奴に妊娠させられたんだよ。そいつを捕まえて、ぶっ殺す」
「ちょっと待て、そういう物騒なことはするな。アカリなら、今は、ホストのアケミとそこらへんにいたけれど、アケミじゃないからな、言っとくが。あいつの仕事はホストだが、実際は、女には100%興味がない。100%だ。だから、お前があいつを半殺しにする前に、忠告しとく」
「くそ」
「ってか、おめーよー、アカリちゃん、めっちゃいい子じゃん。おめーには持ったにないって、みんな言うとる。何があったか、知らんが、お前にこそ問題があるとしか、俺には思えねー。それから、まず、俺を疑ったことがそもそもアウト。俺ら、ダチじゃねーのか? え? 俺がそんな人間に思えるのかよ?」
俺は浅黒いハラグチの顔をじっと覗き込んだ。あまりに胡散臭い顔をしていた。
次号につづく。(順調いけば、つづきは、明日)
※本作品の無断使用・転載は法律で固く禁じられています。
© hitonari tsuji
辻仁成、個展情報。
☆
パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。
☆
1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。
ラジオ・ツジビルはこちらから!
☟
posted by 辻 仁成
辻 仁成
▷記事一覧Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。