連載小説

連載小説「泡」 第一部「地上」第11回  Posted on 2025/09/22 辻 仁成 作家 パリ

連載小説「泡」 

第一部「地上」第11回 

   「しゅうちゃんより好きな人が出来た」という一言はきつかった。普段なら、瞬間的に爆発する単細胞な俺だが、この言葉には、俺を殺すに十分な殺傷力があって、反論さえもできないし、「誰だよ、そいつ、呼んで来い」とも言えなかった。泣いているアカリの顔に嘘がない、気がしたので、これはもう終わりだ、と思ってしまった。俺は肩の力を落としたまま、踵を返し、歩き出すしかなかった。
   「しゅうちゃん!」
   遠くで、アカリの声がした。でも、もう、終わった。俺より好きな人が出来たなら、仕方ない。そういうことなら、諦めて、身を引くしかなかった。『しゅうちゃんより好きな人が出来た』これはきつ過ぎる。一生懸命、頑張って来たが、こうなった以上、追いかけたり引き留めたりするのは俺の流儀じゃなかった。
   「しゅうちゃーん、待って!」
   不意に激しい疲れに襲われ、自分が老人になってしまったかのよう。追いかけてきたアカリが俺の前に立ち塞がり、
   「ごめんね、ごめんなさい」
   と泣きじゃくった。俺はアカリから視線を逸らした。
   「もういいよ。よくわかった。お前にたくさん我慢をさせてしまって、すまなかった。俺、いたらなくて、悪かった。じゃあな。幸せになれよな」
   俺は泣かなかった。泣きたかったけれど、もう、そういうのを通り越してしまっていた。地球が木っ端みじんになればいいのに、と思った。アメリカもロシアも中国もがんがん核ミサイルをぶっ放して、この星を滅ぼせばいいんだ、と思った。
   アカリを手で押しのけて、歩き出すと、アカリが突進して来、背後から俺に抱き着いた。しゅうちゃん、ごめんなさい、と泣き続けている。
   「だから、もういいって。よくわかったから、もう、気にすんな」
   「でも、しゅうちゃんと出会って楽しかった。いろいろと悩んだけれど、わたし、まだ20歳だからさ、分からなかったの。いや、もう20だから、焦りもあるし。好きな人っていっても、一方的に好きなだけで、まだどうなるかよくわからない。でも、だから、その、既に次の人が決まってるわけじゃないの、好きになりかけている人はいるけれど、わたしの気持ちはまだどっちつかず。わたし自身、まだ、よく分からない。でも、だらだら、分からないまま、しゅうちゃんと付き合っているのも違うかな、って思って」
   思わず、舌打ちした。聞いているだけで、腹が立って、その勢いで、アカリをぶっ飛ばしそうになったが、でも、その怒りは次の瞬間、不意に萎んでしまう。つまり、俺は、まだ決まってもいない相手に負けている、ということになる。というのか、アカリは、きっと、俺から離れて自由になりたい、ということを遠回しに言っているに過ぎない。俺は、簡単に言ってしまえば、ふられた、・・・。妊娠したと嘘をつかれ、しまいには好きな人が出来た、と誤魔化され、なのにエアタグは持ち続け、カッカしやすい俺を少しずつクールダウンさせて、現実を悟らせようとする作戦か。いや、アカリにそんな知能的なことが出来るわけがないので、後ろでアカリを操っている奴がいるのかもしれないが、もう、どうでもいい。結論は、ふられた、ということだ。なるほど、やっと気が付いたか、愚か者め。
   「しゅうちゃん、ごめんなさい」
   俺はアカリの手を振り払い、目を閉じて、歩き続けた。くそ野郎、と吐き捨てたが、それは、アカリに向けたものじゃない。誰に向けたものでもなかった。でも、人間というのは、時に、こういう捨て台詞が必要なのだ。誰も悪くないけれど、みんなちょっとずつ悪い。時に、そのしわ寄せが押し寄せてくる。ただ、それだけのことだった。

連載小説「泡」 第一部「地上」第11回 

© hitonari tsuji



   「しゅうちゃーん」
   アカリの声が遠ざかる。さよならアカリ、と俺は心の中で思った。思考のスイッチが消され、俺は群衆の中へと潜り込み、ただ、道に沿って、あてもなく歩き続けた。楽しかったアカリとの日々が頭の中に次々浮かんでは泡のように消えていった。出会った頃の二人、一緒に暮らしだした幸福な時代、居酒屋を梯子酒したり、仲間にアカリを見せびらかしたり、カラオケで朝まで歌いまくったり、俺の腕の中ですやすや寝ているアカリの寝顔、俺の肩に凭れ掛かって歩くアカリ、記憶の中のアカリが俺を必要以上に苦しめてきた。くそ、・・・。
   どこだかわからない場所を彷徨っていると、携帯が鳴ったので、覗くと、野本店主からだった。迷ったが、これも現実だ、逃げ続けることは出来ない。
   「大丈夫か、大丈夫なら、店に来てくれ。人が足りなくて、困ってる」
   「死にそうなんですよ。アカリと別れちゃったので」
   「マジか、そりゃあ、ご愁傷様やけれどな、働いて気を紛らわせたら、どうや? なんもせんで、落ち込んでても、あかんて。身体を動かさな。はよ、来い」
   俺は、了解、と告げて電話を切ることになる。確かに、何にもしないで、部屋で寝ていても始まらない。どんなに苦しくても、働かなければ生きてはいけない。アカリを失った事で落ち込むのは当然だが、いつまでも落ち込んでばかりもいられない。今は、仕事に向かって、忙しさに身を任せることで、この苦しみから一時的に抜け出すしかなかった。俺は、高層ビル群の先端で輝く上限を示す航空障害灯を探した。遠くに明滅する赤い光の玉が幾つか見えた。その方角にラーメン屋「黒点」がある。
   店はいつだって大行列だった。俺は「黒点」と大きく印刷されたTシャツに着替え、手拭いでほっかぶりをし、カウンターの中心に立ち、まるで機械のようにラーメンを次々と作り続けた。思えば、アカリは俺のラーメンが好きだった。あいつが来る時は、俺の前の席を強引に予約席にした。でも、考えてみたら、たかが4か月程度の交際だった。冷静になれば、あまりにも短い幸福じゃないか。くそ、と俺は毒づいた。アカリのことが頭の中でちらつくが、忙しさの中にいると、やらないとならない仕事に追われて、確かに痛みがほんの少しばかり遠ざかる。
   店主の野本は怒らなかった。むしろ「さすがやな。頼りになる」と俺の横で働きぶりを褒めてくれた。「しゃーない、しゅう。みんな人間やから、思うようにはならんて。いつか、傷は癒える。そんなもんや人生っちゃ」野本さんは、惨めな俺を彼なりの方法で慰めてくれた。辞められたら困るからだろうが、今の俺には有難い言葉でもあった。
   「それでも人生は続く。しゅう、きっとまたええことあるって」

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© hitonari tsuji



   客の流れは深夜まで途切れることなく続いた。ラーメンが茹であがるまでに、野本店主が仕込んだ秘伝のたれを器に入れ、そこにスープを注ぎ、茹で上がった麺を湯切りし、整え、チャーシューやネギや卵を入れて、客が座る、カウンターの上に置く。1番がとんこつ味噌、2番が焦がし醤油、3番があさり塩麹、・・・。機械的に俺は作り続けた。いつものような覇気はないが、もう、5年近くやり続けてきたルーティーンワーク、頭が真っ白でも心が崩壊していようと、身体だけはしっかり覚えている。
   深夜1時に店を閉め、それから、片づけと翌日の仕込みなどが始まる。まかないのラーメンを腹に流し込んでから、茹で卵の殻をむいた。俺がこうやって働いている間、毎晩、アカリは遊びまわっていたに違いない。そして、どっかでいい男と出会った。「しゅんちゃんより好きな人が出来た」とあの女はいけしゃーしゃーとそんなことを言いやがった。自分勝手にもほどがある。俺をひっかきまわすにもほどがあった。
   「くそ、ふざけんな! こら!」
   俺の中心で不意に怒りが爆発し、両手を調理台に叩きつけ、大声を張り上げてしまった。他の店員たちや野本店主が驚き、一斉に、こちらを振り返った。しかし、俺は何事もなかったのような感じで、再び、仕事に戻った。真夜中、俺は「黒点」を出た。そして、駅前の深夜バーで安もののウイスキーを呷ってから家路についた。いつもの、あの非常階段を上った。最上階に辿り着くと、飛び降りようと思った眼下を一度見下ろした。人の歩いてないアスファルトの道が見えた。アカリを道連れに一緒に死んでおくべきだった。くそ、野郎。俺は小さく吐き捨ててから家の鍵を探した。
   霧が立ち込める駐車場で縛られた俺は跪かされていた。頭に拳銃が押し付けられているのが分かった。その拳銃を握りしめているのはアカリで、その横に見覚えのない大きな男が立っていた。なんで、その光景が見えるのか、俺には分からなかった。でも、俯瞰する感じで、3人の位置関係がよくわかる。男が、やれよ、と命令する。アカリは泣きながら、出来ない、と言った。すると、その男が、やらなきゃ、付き合ってやんねーぞ、とドスのある声で言った。携帯がポケットの中で鳴り出した。でも、俺は縛られているから、とることが出来ない。「しゅうちゃん、携帯鳴っている」とアカリが言った。「関係ねーだろ、死ぬんだから」とその大きな男が叫んだ。顔が暗くてよく分からないが、鬼のような顔をしたやつだった。
   携帯はいつまでも鳴り続いていた。「うるせーな」と俺は言いながら、手探りで携帯を探し出すと、半ば反射的に、耳にそれを押しあてた。
   「寝ていたの? ごめんね。おこしちゃった」
   と聞き覚えのある声が、耳元で告げた。微かに掠れていて、懐かしい。どうやら、醒めながら見る夢の中にいるようだ。声のおかげで、霧が晴れるように、俺は現実に連れ戻されつつあった。女の声は夢と現実のちょうど狭間あたりから聞こえてくる。むしろ、頭の中にいるようなものすごく近い響き具合だった。
   「どなた?」 
   「ミルコ」
   次の瞬間、すうーっと目が覚めてしまった。そして、携帯を覗き込むと、画面には、俺が登録した時の文字で、「ミルコさん」と表示されていた。

            次号につづく。(たぶん、明日です)

  
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辻仁成、個展情報。

パリ、10月13日から26日まで、パリ、ピカソ美術館そば、GALERIE20THORIGNYにて「辻仁成展」2週間、開催。
画廊住所、20 rue de thorigny 75003 paris

1月中旬から3月中旬まで、パリの日動画廊において、グループ展に参加し、6点ほどを出展させてもらいます。
画廊住所、61 Rue du Faubourg Saint-Honoré, 75008 Paris

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辻仁成 Art Gallery

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Hitonari Tsuji
作家、画家、旅人。パリ在住。パリで毎年個展開催中。1997年には「海峡の光」で芥川賞を受賞。1999年に「白仏」でフランスの代表的な文学賞「フェミナ賞・外国小説賞」を日本人として唯一受賞。愛犬の名前は、三四郎。